経緯

前書きに書いたように,Sion(Keiji YAMASHITA)の遺した,膨大なノート・文献類の中に,それだけ別に
ひと纏めにした『砂』のカード類がありました. そのカード類が背負ってきた
歴史の経緯を解き明かすのが,この章の目的です.



山下敬治の音響学の仕事について

  敬治は京都帝大の物理・玉城嘉十郎門下で,湯川・朝永両博士の幾らか先輩に当たります. 先輩後輩のつき合い だけでなく,往時ですから,個人的な行き来もあったようです.
  その物理学研究の出発点は音響学でした. 実際,博士論文(昭和10年=1935年/京都帝國大学)のテーマは, 主論文が部屋の残響(原文では『余響』)の数理モデル化による研究で,副論文が梵鐘(Japanese Hanging Bells) の発する振動数の数理モデル的研究でありました.

  少し後輩になる青木一郎博士は,梵鐘の初期の共同研究者の一人で,敗戦後に復元鋳造された梵鐘には,『音響設計』と言う表現 で,博士の名前が鋳込まれたものを見掛けることができます.

= 脱線 =


  遍路旅で四国の寺寺を歩いていると,1400年とかの久遠の歴史を誇りながら,昭和の20〜30年代の梵鐘に出逢います. と言うより,殆んどの鐘がそうで,此処にも先の戦の傷跡を見る思いがします. 二十一番・立江寺では昭和二十四年春の銘を見て, 丁度50年になること,敗戦後間もない再鋳造の心意気を見て,感じ入ったものです.
  二十三番・医王山・薬王寺では,青木一郎博士の設計の鐘に 逢うことができます. 大きくはありませんが,すんなりとした韓渡りの趣を残した名品で,筆者は,一目で 『これは!』 と鋳物の匠の名前を探したものです. 1958年,高岡の老子 次右ェ門の作でした.<老子=おいご>
  阿波の国南部から土佐に向かう,この辺りの梵鐘のメモを示すと,
  ○二十一番・立江寺  1949 鋳物師 不詳
  ○二十二番・平等寺  1954 鋳物師 高岡・老子 次右・花押
  ○二十三番・薬王寺  1958 鋳物師 高岡・老子 次右ェ門/音響設計 青木一郎
  ○二十四番・最御崎寺 1955 鋳造所などの記載なし
  ○二十五番・津照寺  1960 鋳物師 高岡・老子 次右・花押
  ○二十六番・金剛頂寺 1964 鋳物師 京都・岩澤徹誠
  ○二十七番・神峰寺  1969 鋳物師 京都・岩澤徹誠
となります. 参考: 老子製作所HP
  それぞれ,並の大きさの鐘体ですが,最御崎寺 [ほつみさきじ] のものだけはとりわけ大振りです. ここは,論評をする場 ではありませんが,再鋳造の肝煎り連の名前が麗々しくあって,鋳造所などの鋳込みがないのは,どのような経緯による のでしょうか? 鋳造所や鋳物師の名を入れることこそ不遜だとする意見もありましょうが,筆者は,良くも悪くも (C)商標表示で,「製造物責任表示」 だと理解します. 後世の人々にも有用なことだと思います.
 

伝承された文献について

  古今の名著に関する解題[げだい]のメモ書き(講義予備録)は,仮に大学の専門書籍として印刷に供するとすれば,20冊 に余るほどのものが清書され,和綴じ風に糸掛けされて,残されています. 実際に,講義あるいはゼミに活用された ものもあれば,出番がなかったものもあるようです.
  その中で,鳴り砂に関する論文・解説記事・メモの類は,まことに不思議なことに,ほとんど残っていません. 唯一残って いたのが,昔のアルミの弁当箱に収まるほどの文献カードの類でした. このカードの塊を,『伝承された文献』 と 名付けておきます. 『伝承された』 とは,そのカードの総てが父の手になるものではなく,他のところでも記した ように,新帯[ひいのみ]國太郎博士から伝来した(あるいは,後先が分からないが,恐らく,中村新太郎教授か小川琢治教授を (and/or) 経由した(?)) ものであるからです.
  整理が出来次第,順次掲載していきますが,敬治の手になるカードはおよそ30枚でした.

= 新帯博士に関して =

  少なくとも,現今の WEB の中で検索すると,2系統について記載があります. ひとつは,鳴り砂に関する もので,三輪茂雄さんの一連の記載の中で,2回出現するようです. 今一つは,全くの畑違いで,わが国に於ける サッカー (ア式蹴球) 事始めについて,昔[19XX年]の東京師範学校生によるチーム結成の記事においてです.
  雑誌・新聞の記事に関しては,『伝承文献』 に含まれていた,1963年(昭和38年)の朝日新聞[中部版・夕刊]の 切り抜きがあります.  これは,因縁話のようですが,実は,父敬治の収集によるものではなく,筆者自身が父に送ったものです.   たまたま往時名大プラズマ研究所に行き来していた [流動研究員] 筆者が,研究者用の宿舎でその記事に遭遇したのでした.   しかも,新帯博士が,名古屋の直ぐ近くの,,知多の出身だということを意識していませんでした.  意識していれば,名古屋での 研究の合い間に,生家まで足を運んだに違いありません. <40年ほど過ぎてしまいました・・・・ >
  新聞記事の主な部分を引用しておきます;−
  << 整理中 >>

  ネットの中で博士の親族探しを行って,偶然,若干の手がかりを得ています. 博士の生家のごく近隣の青年学徒 [理工系] に 連絡が付き,それだけで,ちょっとしたドラマでした. メールの遣り取りをする内に,その青年自身が帰省して,新帯博士のことを初めて確認することになるのですが,もう少し整理が付くまで,公開できません.

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