地場八十八番探訪

(私家版)初巻

[99年11月開設/2000年1月措筆]

全国各地に,『地場札所』と呼ばれるミニ遍路みちが作られています.
ときには,ある寺院の境内に,また奥の院の形で,作られている例もありますが,
多くの場合,昔の,弐・参ヵ村が講を作って奉持しています.
備前と備中の国境辺りに展開される,通称 『大内田の札所』 と呼ばれるものがあります.
それを中心にしたミニ巡礼のレポートです.


<大きい訂正>
99/12/08 「88年調査」は,『81年調査』が正しい. 関連するところを直した.
倭の色 BG=鉄納戸
TXT=金色[こんじき]
朽ち葉色

  連絡先    Photo



はじめに>
  各地に,観音三十三霊場とか,○○三十三番札所とか名乗るものは多くあります. それらは,一般には,『本四国』と 同様に,その数だけの寺院を実際に巡るものです.
  一方で,寺院の境内の中に,四国の八十八ヵ寺を模して,八十八の祠と持仏(普通は石仏)を並べて配置し,高々 三十分余りで遍路の体験をさせるミニチュア版もあります. 此処で述べるものは,数ヵ村程度の部族集団が創りあげた, 全長数キロメートル程度のもので,今も脈々と護持されているものに目を向けます.
  具体的なものとして,岡山市と倉敷市のほぼ中間部分に展開される例を見ます.

  [なぜ?]
  人々は,私が『お遍路』に「心を奪われている(?)」のは何故だと問います. ウン拾年連れ添ったカミさんでさえも, 問いかけます. 正直に言うと, 私もなぜだか判らないのです. だから,このHPのどこかでは,『プラモデルを趣味にする人に,信念を求めるか?』 と開き直ってみました.
  98年の夏頃,図書館の片隅で,地場の札所の調査記録を見つけました. これまで,寺院の境内にある八十八の祠を 見ていますから,また,『本四国』の寺院の中にあるそれらを識っていますから,『地場の札所』の存立意義が判りませんでした.  しかし,一年間余り,ずっと,その存在自体は気になっていました.
  私のような,信心のないところから遍路を始めたものにとっては,境内の八十八カ所巡りは,それで『御利益』が授かる と言うことには,逆に,強い反発のようなことを感じます. そのことは,翻って,『本四国』とはなになのか?  おまえに とって何なのか? と言うことになります.
  99年秋10月の末,事情があって,四国へ渡る予定が二度ほど流れて,思い立って,地場の札所に足を向けることになりました. そこに,「何故?,なになのか?」の答えが潜んでいるかも知れないと考えたからです.

  [答えは?]
  TVの○○体験記ではありませんから,答えは簡単には見つかりません. 見つけるつもりもありません. ただし,ただの三時間 ほどの行程で判ったことが一つだけあります. 二巡,三巡すると話は別ですが,最初に巡ると,『次が見えない』のです. 余り簡明な言葉で言うのは佳くないが,『オリエンテーリング』状態に陥るのです. 今の場合,すべての祠に番号(相当する 寺院名)が付けてあるわけではないので,また,地図や案内板が完備しているものでもないので,順路を迷うわけです. 実際, 初巡・初回には,焼山寺(十二番寺)までは行き着いたが,次に二つの対応の判らない祠を経て,お鶴(鶴山寺=十九番)に 行き着いて困ったものでした. <初巡の第二回で,この件はほぼ解決するのですが,又新しいことが起きるわけです.>
  二巡して,三巡する間には(想像ですが),石仏のお顔を判別したり,覚えたりする嬉しさが出てくるのだと思います. 初巡であっても,祠が作られている素材を見比べる愉しみがあり(俗で,妙な楽しみ方ですが),その薮かどを曲がると祠に行き逢える かなと言うような期待感を揺さぶられたものでした.

  <場所と構成>
  この地は,有史以前は海際であって,海岸線は時代と共に低下し,また,人為的に埋め立て干拓もなされた場所です.  今もって,『崎』『鼻』の地名を残しています. 札所が置かれている丘陵は,今では,海抜100m未満程度の里山です. この辺り周辺の里山は,雑木と竹藪が混ざり合っていますが,この地の,特に祠が展開されているところは,圧倒的に竹藪が優位を 占めています.
  規模に関しては,『本四国』の百分の一のスケールと言われていますが,81年調査の実測によると,総延長10km余りです から,薮に踏み込んだり,迷ったりせずに歩くと,4〜5時間の行程のはずです. ほぼ北東の位置から時計回りに廻る ことにしてあり,地形を活かして高低差や間隔に『本四国』に似せる工夫が見られる処もありますが,さほど厳密ではありません.

  <歴史>
  石碑[いしぶみ]の刻字を見ても判るように,二〇〇年余りの歴史があるようです. この地の例では,烏城開城四〇〇年,後楽園 開園三〇〇年から見れば,新しいとも言えますが,お上の仕業ではなく,庶民(主に,守護する農民と崇敬する商人)の合力による ものであることを考えれば,長い歴史を保っていると言えるでしょう.

 <参考資料>
 #1 昭和56年(1981年)調査 以下の記載で[7]のように,[ ]で囲まれた数字は,この資料の番号に依る.
 #2 1982年 岡山県埋蔵文化財調査報告書 p74−75




 <初巡[初回]99/10/29 午後>
  ○歩き初め
  予め地図で見ていたので,当日はその地図を置き忘れて出たけれども,一番札所の所在は直ぐに判った. もう少し正確に 書くならば,ここぞと思った位置は,八十六番札所であった. ここでも,時計回りに巡るので,八十七番はそのまま到達できた. あとで,参考資料#1の調査図面と見比べると,八十六番は[107],八十七番は[108]に相当し,いずれも,木造の 本瓦葺きであった. 現地では,八十八番は容易には見つからず,一番[1]から,改めて,スタートすることになった.
  個人的な感想を述べるならば,ひとつ足を進めるごとに,『本四国』の,既に巡った寺寺の光景が蘇って,時には,その幻想光景 から「宗教的」に近いエトヴァスを呼び起こされることもあった. 『アルバム効果』とでも名付けておこう. 古人[いにしえびと] も,見知っている光景,未だ見ぬ風景を脳裏に現出するために,この行場を創ったのであろうか?

  ●祠の材質
  祠は,大抵内側寸法で1mの立方体よりやや小さい程度である. 時に,2m程度のものもある. 分かり易い表現をすると, その中に,二体の「お地蔵さん」のような石の像が祀られていると思われると良い.  祠の中の像は,標準的には本尊と大師の二体だが,三体,四体ある場合や,欠損のある像を含むこともある. 像の素材は,加工の 易しい点で凝灰岩系,材料が容易に得られる点で花崗岩系が多い.
  信仰上は,本尊が『本四国』の本尊に合わせてあるか・・とか,民俗学的には,祠や後背(光背),台座に彫られた地名・年号など が重要な意味を持つが,素人でも直ぐ判るのが,祠の材質である. 基本的には,花崗岩系の石造りと,木造本瓦葺きがある. 近年の 補修によるものは,(番線程度の鉄筋の入った)セメント造り,ブロック造りなどがある. 後に述べるように,昭和末になされた 大改修[遷座]の例では,大谷石風のブロック造りである. 仮に,『平成十年代式』と呼んで置く様式もある. 祠体の本体は多分 ブロックで,それを白色の漆喰風のモルタルで覆って,正方寄せ棟屋根で本瓦色か銀色の擬宝珠を頂いている. この記録を書き上げる 直前に完成したものを含めて,七祠に達する. それぞれ,築造・改修の時代背景が想像され,重要な要素である.
  その中に,色鮮やかな赤煉瓦造りのものが一カ所あった. これに遭遇したときの驚きを思えば,本当は,書かないでおくのが これから参詣される読者のための親切かも知れない. 十番[11]切幡寺で,1981年調査に既に記載されているが,苔の付き具合 から見て,それを遡ること,さほど古い補修ではない.

 <初巡[二回目]99/11/06 午後>
  ○焼山寺と鶴山寺の間を繋ぐ
  言うまでもなく,『巡礼』あるいは『順礼』の言葉が示す通り,寺寺を順を追って巡ることに一つの意味を持たせてある. 寺寺の配置 に距離の長短,地形的な難易が設けられている. 当初はそれが強く意図されたものでは無かろうが,結果的に見ると,やはり重要な 『舞台装置的な(島森路子)』意味を持つと理解される.
  そのこともあって,地場の小さい札所を巡るときであっても,順序を見失ったり,不本意にも巡拝を省略すると居心地の悪いものがある. この初巡・二回目の巡拝には,焼山寺と鶴山寺の間を埋めることにも重要な意味があった. ミッシングリングZ,つまり,自分の中の ミッシングリングの補修と言えようか. この作業は,容易なことであった.

  ●ミッシングリング A
  学術的に(民俗学)重要な懸案の一つに,祠の順序を見たときに,重複と欠損の問題がある. 1981年調査も,そのことは完全には 解明していない. 告白するならば,このことも,この札所が私を呼び招く理由の一つであったろう.
 例えば,六番と言われるものが見当たらないが,実は七番と呼び慣わされているものが本来の六番で,七番が二十三番と二十四番の 間,実際の地理で言えば,室戸岬近辺相当の位置に移動しているらしい. また,三十四,三十五などが,探して見当たらないと言う.  三十五番は遥か先に台座だけが紛れ込んでいるそうである.
  このような欠落や,身代わり,場所の移動は何を語るのであろうか? 篤き信仰のなせる技か? 争いの果てか? 冠婚葬祭の酔狂の 弾みか? その昔にも『新規の開墾』があったのか?

  ○ミッシングリング B
  札所が私を招くもう一つの理由は,1981年以降どうなってしまったかと言う点からも発している. そのことで,今[執筆時点で] 私は,自分で用意した坑[落とし穴]の中に居る.
 本編の中でも書いたが,99年の夏の遍路旅で,雪渓寺を目前にして道を見失った.  土曜遍路の帰還の時期が迫っていたせいであるが,人間[じんかん]にあって,行き交う人に道を訊ねながら 目前で,次の機会に委ねざるを得なかった. それなりにショックであった.
  今回は,浅いといえども,山中の踏み分け道で道を間違えた. 100m以内に車が走る道があることは音から判っていたから,全く問題は なかったが,踏み分け道を断念して出てきた処は,メッセ[展示場]施設に連なる巨大な流通基地であった. これが,『1981年調査』をさせた 張本人で,1981年以降を調べるのが『もう一つの理由』だったはずだったが,そのことをまるで忘れていた.
  正確な地図を頼って,『次』を探すことは出来るだろう. 村の古老に訊ねれば,『その先』がどうなっているかは容易に判るだろう.  けれども,40時間ほど経過しても,次の一歩を踏み出すモーティブフォースは湧いてこない.
  ゴロ合わせをして遊ぶつもりはないが,禅峯師寺・雪渓寺[39,40,41]を過ぎた地点であった.


 <初巡[デスクワーク1回目]99/11/09>
  自ら陥った落とし穴から這い出す手段は2つある. 本来的には『現地』を歩くしかない. 一方,『資料』の中で調べる方法も残され ている. いささか不本意だが,職業柄,とりあえず第二の方法を採る.
  これまで見ていた調査書付属の地図[地図1]の他に,現況を示す地図[地図2]を用意し,現在の流通基地[団地]が作られる 直前の埋蔵文化財調査の地図[地図3]を見つけだした. それぞれ縮尺が異なるので,コピー機の助けを借りて,共通の1万分の1に 統一する. 地図1を透明なシートに写して,地図2,地図3,それぞれに重ねる!!
  細かい議論を抜きに,結論を書けば,110カ所の祠のうちの #43 から #62 の20カ所が開発の影響を直接に受けている可能性が強い.  丘陵地を埋め立てながら団地を作ったのだから,十指に余るものが土の下に眠る運命を被ったに違いない. 移設されたのか? 小さい とはいえ,移設された巡礼地とは何だろうか? まだ命を保っている生活と信仰の形を!?・・・ センチメントで言ってはいけないが, 古代人が眠る墳墓に手を加える冒涜と異次元のそれを超える冒涜ではないか!

  先日道を失った地点が,現況では,どこになっているのか? このことは,個人的には重大関心事である. 現況の地図を見比べると, 踏み分け道を一本,10mほど北の薮の中を歩いていたことになる. 目標の,東京ドームに丁度一つ入る程度のおむすび山は,探しても ないのが道理で,完全に削り去られている. ここには,古代人の住居跡(奥坂遺跡・弥生後期)があったと,資料[#2]が伝える.
  先回,俗世にワープしてしまった地点の,その先の現実.・・・  悲観的だが,これは現地踏査する以外にない.


 <初巡[デスクワーク2回目]99/11/10>
  デスクワークの,建設的な成果についても記しておこう. 順に巡るとき,最初に遭遇するミステリは,七番寺の欠落である. 詳しく は,六番寺と七番寺の錯誤[仏体の入れ替わり]があり,結局,七番は今では,丘の上の二十三番寺と二十四番寺の間に移動してあると 推定されている. 語り伝えでは,『我が家のものだから(施主),(自作地近くに)持って帰った』とされているそうである. 
  今から言えば,僅か60年ほど(聴き取り時点で40年ほど)の昔らしいが,人々も入れ替わり,語り部の口も重くなり,詳しい経緯は 定かではないと言う. 現代の民俗・伝承研究の難しいところである.


 <初巡[第三回]99/11/13 午後>[後日記載]
  ●前・県知事の名誉のために
  この団地造成に心血を注ぎ,今歩いている地点の西のメッセ会場の前に麗々しい石碑を残された岡山県知事殿の名誉のために, 一つ付け加えておかなければならないことがある. 直ぐ上で,「十指に余る祠が土の下に眠る運命に・・」と書いた部分には, 「民俗遺構(*)を傷つけない最大限の努力が払われたけれども,残念なことに,」と付け加えておく必要がある. ともあれ,一巡りした後で, 『どのような努力がなされたか』詳しく記すことになるだろう.

  [後日補記](*)思わず,『民俗遺構』と言う言葉を使ってしまったが.私自身が間違いを犯している. 『民俗史跡』と言ってすら 間違いで,『命ある民俗施設』と書くべきであったろう. 

  ○通学路?!
  先回突然途絶えてしまった巡礼路の続きを探ることから始まった. 数百メートル南を新規格の国道2号線(バイパス格上げ)が が走っているので,そちら側から『北上する』形で路を探った. 国道と巡礼路の間にある,市営のスポーツ施設団地[山田グリーンパーク] の奥に,目指す[42]の いしぶみ は静かに待ち受けていた. 祠などが動かされた形跡はないが,ここでも,スポーツ団地側は削られ 埋め立てられていて,恐らく昔の姿ではないと推測される.
  ともあれ,目当ての[42]=番外札所に辿り着き,その後の山路は先回に連絡できた. 先日,道を失ったのは,三抱えほどの石の傍らを曲がり 損なって,角度にして30度ほど方位を間違ったことに依る事も解った. しかも,いずれにしても,ほどなく『流通団地』の同じ人工の 崖っぷちの50m違う地点に出るだけである.

  今回行き着いた崖っぷちには草に埋もれた道しるべがあり,それに導かれて,崖に沿って100m南下する. と,突然,コンクリート の階段が現れて,道しるべはないけれども,巡礼者は選択の余地無く,トラックターミナルの真ん中に誘[いざな]われる. 階段には, 川土手の上の通学路などによく見られる,白い,物干し竿のようなポールを3段に組んだガードレールが設置されている. 通常のガードレール でないことが『道しるべ』の役割を担って,私のような『あるきにすと』には,よそ者であっても,容易に解るようにしてある(?).
  白いポールのガードレールはトラックターミナルを約300m西に進んで,この流通団地の南北のメインストリート[県道73号線]に 行く手を阻まれる. トラックの行き交うメインストリートの向こう岸に『通学路のガードレール』を見つけることが次の作業であることは, RPGフリーク[なりきりグゲーム達者]でなくても,読者には予想できるであろう.
  
  ●行き暮れて
  またしても,語呂合わせのような話になるが,私の『本四国』での巡拝は,三十九番寺・延光寺で中断して,二ヶ月近くが経つ.  つまり,土佐・高知から伊予・愛媛への国境[くにざかい]を越え得ないで居る. 此処での踏査(巡拝)もそこで途絶えた.  更に,その種の話を続けるならば,本四国では,三十八番の足摺・金剛福寺から三十九番への路は竜串経由を想定していたが存外の 雨に遭い,心ならずもバスの助けを借り,中村迄戻った後に達した. 此処でも,三十八[44]から三十九[45]は茨の茂みに路を 塞がれて,三度に亘って道を変え,結局一旦県道まで出て,迂回し到達した. 省みると,茨の向こう側は熊笹が刈り込まれていて, 阻まれた距離は,わずか20m余りであった.

 このように,別に深層心理の中に『本四国』での巡礼の今の位置を追い越してはいけないとする気持ちが働いた のではあるまいが,この日は四祠を巡るだけで終わった. 日没をひかえて,此処で事実上中断し,移設されしまったに違いない 祠[46〜59?]の本来の位置がどのように 変貌してしまっているか確認することが残りの仕事になった. 祠[46,47]の推定地点には,立地企業の境目のところに, やや深い崖状の地形が残されていた. 祠[48,49]の推定地点は企業のビルの玄関先の植え込み辺りで,そうと思うと必然性の ない築山が形成されていた. その日の時点では,祠が残されているか『跡地』を示す標識ぐらいは置かれているかと想像したが, 地図の精度は10m程度なので,いずれも私の思い入れに過ぎないような気もする.


 <初巡[第四回]99/11/20 午後>
  ●カエサルのことはカエサルに訊け
  第4回目の道行きの自転車の鞍上で思いついたことは,寺のことは寺に訊けと言うことだった. 里人・古老に教えを請うのも佳かろうが, 行きずりのジーパンの爺さんは怪しまれるだけである. 霊場を奉持している村落の一つに,大内田地区があって,その中心に『千手寺』がある.  そこに,多分移設されたであろう祠についての情報があるに違いない.
  実際に千手寺に参詣して,門前に『由来記』と『配置絵図』の立て札に遭遇できた. この絵図により,[46]以降の移設の状況は (頭の中では)ほぼ理解できた. 寺の人や,近隣の住民に問うこともなく現場へ向かった.

  ○信教の自由?
  移設された祠に行き遭うと,何か,別の意味の違和感が起きてくる. 上にも述べたように,遷された大師・仏は公団団地?,被災住宅? とも言うべき画一的な安住の地に祀られてある. 我が国の無宗教風土では,これらを『民俗』施設と視るので(筆者も同類で),問題は 生じないかも知れないが,この遷祀を行政による宗教サポートと理解するときは,他の宗旨,異教徒達には異議のあるところであろう.
  宗を護る立場側から視ると,白いポールのガードレールや,アスファルト貼りの遍路みちには納得できない. これらの件は,脱線なので, 此処での議論は止める.

  ●遷座(移設)された仏達
  実際現地に到達すると,先日最後の祠[45]の50m西に,移設された[46]と思われる祠<後の検証で番号対応が修正される> があった. 先回は,本来の地の現況がどうなっているかに重点があったので,そこに至る『アスファルトのガードウエイ』が造られているのを見逃し ていた.
  今回の巡礼で,流通団地に覆われる運命の十三カ所か十四カ所かの祠[46〜59]が移設されてあることが分かった. この記述は, 現地巡拝と後日のデスクワークとを統合したものである. 以下の文章で,この移設には,地元の奉持会に従って,『遷座』の言葉を 当てることにする.
  遷座された祠は,例外を除けば,[45]=三十九番(A)の西方に配置されて,やがて[60]につながって輪を形成するようにしてある.  従来の[59]から[60]への拝礼順路がやや不自然に飛躍的であった点(81年調査の認定)はすっきりと成ったのだけれども・・.

  結論的に言うと,遷座に当たって,この地域の拝礼順と札所番号の対応の不確かさが,かなり強引に整理されて並べ替えられていた.  重複札所は,従来の参拝順に拘わらないで,並べて配置され,欠番は不明札所や推定によるもので補われた. ただし,遷座された祠 の最初には[46]=四十番を置かないで,[50]=三十六番寺相当を配して,そこから順次寺番号が繋がるので,在来[45]三十九番からの 連絡の矛盾は此処に集中して,却って奇妙になり,修正しようがない.
  81年調査時点での問題地帯の拝礼順序の対応の複雑さと,この辺りでの複数札所の存在原因の解明は,民俗学の立場からは,大きい 課題であったに違いない. 実存の『奇妙さ』や『不条理』は時として学術上のヒントの種になる. 今や,それらの『奇妙さ』は 資料の中に残るだけで,現況としては,ほぼリセットされてしまった. 配置の順序まで変えられたので,相互の間隔と設置の方位は, 元のものと余り相関しないことになった. 海抜高度にも特別の配慮はなく,ほぼ同じレベルにある. 新しい祠は,等しく大谷石風の ブロック造りとなり,良くも悪くも,『昭和末の遷座・改修』を象徴している. 時には,後背の丘や藪の土砂の流下を遮るために 砂防のコンクリート製の土手を背負っている. なお,多くの場合,野積みではあるが,元来の祠材が傍らに保存されていることは 評価され得る.

  私の薄い記憶に間違いなければ,この日は『ご縁日=大師の月命日』であったが,遷座された祠周りは,葛,薄や笹の繁茂が激しく, 仏のお顔も隠れるほどである. 花筒はあるが,献花は乏しい. 集落から一番遠く,数筆だけ残された近隣の田畑にも耕作の跡が ないので,無理もないのかも知れない. が,順序も『合理的』に並べ替えられて,『博物館状態』に保存されている. 此処では, 通学路のような柵はないが,葛の下にはアスファルトが貼ってある.
  <後に[99/12/08]解ったところでは,明けて二十一日をご縁日とする例も多いという. この地では,昔は旧暦三月二十一日,同七月 二十一日に,こぞって参詣したという.>

  ○遺されてあるもの
  祠[60]以降が,若干の改修・僅かの移動があっても,元のまま遺されているらしいことは間違いないが,結果的にはいくらかの スキップが生じてしまった. つまり,現地で[58],[59]の対応確認ができなかったせいで,また,[63](事後確認)以降が 存在する『三谷霊場』に様々な神仏の祠が混在するゆえに,[60〜62]の巡拝を忘れていた. この日は,更に,私有地と付け替え道路に 阻まれて,帰還直前に二〜三祠の位置確認を誤った例もあるが,[79](推定)を林の中に拝んで暮れた.

  この日の巡拝は千手寺の『現況』を示す看板絵図に大いに助けられた. いつも81年調査の折りの地図は携帯するが,各々の祠の 調査写真は敢えて持参しないことにしている. また,地図もできるだけ見ないで,路の進むままに任せる. 幾つかの理由がある.  正面切って言えば,資料を持って行くほどに,巡拝ではなく踏査に傾斜してしまうこと. 個人的には,過剰な予備知識が『オリエン テーリング感』を壊すことも避けたい. そのことで,スキップや誤認が生じることは致し方もなく,当然でもあろう.


 <初巡[第五回]99/12/04 午後>
  ●お久しぶりです
  別に毎週末に訪ねると決めたわけではないが,別のスケジュールのために,巡拝が一週途切れた. お陰で,今回は幾つもの 『新発見』や『再発見』に恵まれた. 今回は,午前から動き出したが,倉敷に知人の個展があって,それを観てからの帰途に日程を 組んだので,正味時間は二時間少々であった. そのため,先回の疑義を埋めることを専らの課題とした.
  先の巡礼では,流通センター開発のために,やむなく移し替えられた祠の数が足りないように思えるのが心残りの一つであった. 別の言い方をすれば,新たに移された祠から旧のまま残された祠への順路を見失ったまま進んでいた. [53.54.58]=四十三番相当 の三連の祠の次に四十四番相当に至り,その後が不詳であったので,四十三番相当まで戻って繋ぎ打って行くことにした.
  <本四国を巡るときに,一足で行けずに,在所と行き来することを『区切り打ち』と呼ぶらしい. 私は,正式の呼称か どうか知らないが,『繋ぎ打ち』の言葉を使いたい. 『区切る』は,いかにも『自力』の意志が強いように感じるからである.>

  四十三番は,前と同じように草で覆われていた. 念のために書くと,そこは山に踏み入ったところではなく,行き止まりとはいえ, アスファルトで覆われた農作業道の脇にある. 先巡のとき,フィルムの残りが乏しかったこともあり,写真に収めていなかったので, 泡立ち草や蔦葛のたぐいを除いて,記録に納めさせていただいた.

  祠[59]は,実は,あとで『発見』することになる. 集落の縁を幾らか彷徨って,農業をする初老の女人に順路を訊ねた.  どこかにも書いたが,土地の人に中途半端にものを訊くことは避けるようにしている. 自分の方に,この地での大師講の, ありがままの姿が見えてから,しかるべき人達に『教えを請う』のを理想と考えている.

  ○見つける,見逃す
  農女は「あちらのカーブミラーの下に行かれ〜」と教えてくれた. 祠[60](四十六番と墨書)は,小さい,十戸ほどの集落の 真ん中にあった. そこに近づくときの感慨は,おそらくこの巡礼の全部を通して,後にも先にもないものとなろう.
  仏達に近づくにつれて,なぜか,涙がこぼれた. 還暦も過ぎた爺さんが,白昼,大道の上で,泣かされた. 『来ましたよ!』, 『やっと,見つけましたよ』と言うのも正確ではない. 本四国では,『やっと,来ましたよ!』という経験は幾カ所かで得たが, 此度(こたび)のものは,『よう来たな』と仏に声を掛けられた思いに近い.

  遠見の祠の姿がよい. 建立の時のままかどうかは判らないが,本格木造の本瓦葺きの祠である. 献花が生き生きしている.  拝めるほどに近づけば,仏のお貌も優しい. 祠の中の蜘蛛の巣に懸かる稲藁や仏の前垂れに積もる埃は,多分拭わぬままに してあるのだろうが,ほこら周りが清々しい.
  村人達が,よくお守りしているのだと思える. いや,違う. 仏達が,村人達を良くお護りくださって,二百年の余が 過ぎたのだ.
  先巡のとき,日暮れを気にしていたとは言え,この祠を見逃してパスしたことを残念に思う. 目指す札所を見つけ得ないで, 道を往き戻ることは,本四国でも珍しいことではない. しかし,一方で,『導かれる』感じで,自然な形でそこへ至り得る ことも希ではない. 『見つける』などと言うこと自体が不遜なのかも知れない.

  よく,呼び寄せてくださいました.

  ●辿る
  祠[61](四十七番と推定)は,その祠[60]の20m程北に,県道から数メートル離れて平行する同じ村の道の脇にあった.  この二つの祠は,今の行政区域では,早島町から岡山市に踏み込むや否やの微妙な早島側に存する.
    その時点では,四十五番に当たる祠([56]を遷座されたと後に解るもの)を巡り当てていないことは忘れていた.  女人に道を訊いたときに上手にちらと見た祠を先回行き合った[57]=四十四番寺だと思い込んでいた([58]は既に並び替え られていて順番が乱れている). [61]から大巡りして,置き去った自転車の傍らに来て,気が付けば,初めてまみえる祠で, それが遠くから移し替えられた[56]そのものであった(大谷石風ブロック造り). 草に競り勝って,人の背丈の 『順路』の道標もある. またしても,眼(まなこ)を開きながら『見ていない』ことを思い知らされた.

  81年調査に拠ると,祠[62]は移されていないはずで,先回その前を通り過ぎたに違いない祠である. 此の度も,県道 沿いを探し探して,実はその前を二度通り過ぎた. 普通の大きさの祠が丈余の御堂に納められて,鞘堂に護られていたので あった. 堂内・祠内に四十八番札所と墨書されていた. つぶさに見れば,お堂の外に,四分角ぐらいのタイル文字で,「大師堂」 と記されている.
  こうして,先巡の三谷霊場内の[63]=四十九番以降に繋ぐことができた.

  ○昭和末の大遷座
  ここで,今回解ったことも含めて,遷座=昭和末の大遷座の内容を整理しておく. 先にも述べたように,祠の参詣順序を一旦 崩して,仏体や台座名から疑義があるものを『正しく』並べ替えられた. また,同じ札所寺の番号[本四国]が同じものは,一カ所 に並び祀られた.
  結局,81年調査の祠番号を新しい配置の順に書き記すと,
   [50],[47],[49],[48],{[46][51]},[55],[52],{[53][54][58]},[57],[56]
となる. また,[59]は四十四番寺と理解されていたが,今回は番外扱いされ,『塚山公園』入り口に配置されている. なお, { }で括られた二連,三連の祠は,同じ札所寺との推定を受けたものである. 遷されたものは,札所番号で,三十六から四十五 番までの十ヵ寺が,ほぼ東から西へ進む新しい『順路』に,並んだことになる.
  ともあれ,これで,大きく遷座されたであろう祠の配置は,細かい点で疑義を残すものの,一応理解された.
    < この遷座の正確な時期は,然るべき所に問い合わせば解ることだが,現地を歩いたところでは,昭和58〜59年(西暦83〜 84年と考えられる. 塚山公園の石碑の金文に依ると,昭和62年春の日付で,遷座の謂われを述べている.99/12/08 記載 >

  ●千年紀末・進行形の改修
  先回巡拝の祠は,遥拝しつつ,略して先に進む. 先回は[73]から先の足取りが,また,乱れたので,そこへ戻って驚かされた.  祠[73]の位置には仏達はおわさず,墓場の石塔のような青味の花崗岩の台座が組まれてあった. 祠は改築中であった. 今回の 打ち納めに出合った札所[82]でも,同様な台座の上に通常のブロックが積まれて途中であったから,同じ村内にあって,共に祀り 替えがなされているのであろう.
  喜ぶべきか,悲しむべきか. この,万人キリスト教徒になっての千年紀を言祝ぐかに見える時代に,祠が積極的に護持されて いること自体は喜ぶべきであろうが,私の予測は以下の如しで,悲観的である.   この祠の総花崗岩造りのいにしえの祠体は,ブロック積みに白モルタルを塗った宮造りで置き換えられるに違いない. 今の時代に, 先例の大谷石風に倣わず,通常のブロックを積むとなると,台座の青御影に裸のままとはなじまないので,モルタルで覆わないでは 措かないであろう. 三回目に,[44]の祠の隣[次順・向かって左]に新たに併設・付加された切り妻の宮造りを見かけたが,それが, 現時点の最も近い過去の改修と想像できるからである. 

  ○繋ぎ,繋いで,繋ぎきらず?
  順序を戻して,[73]の祠の次を辿ると,順路が塞がれて,某建設業の私有地の中を通ることになる. 事務所に断りを 入れて,[74]に至る. その先は,先日の最終地点に繋がるものと理解した.
  先日の帰還間近かに,またまた,二つほどの祠の所在が不確かなことを上で述べた. そのとき出合った二つの祠 (現時点では[76],[77]と想定する論拠が濃厚)は,大谷石風のブロック造りであった. 今回右往左往した後に 出合った二つの祠は現場では[78],[?]と想定したが,後日のデスクワークに依ると[84][83](遷座で,順序が換えて あるらしい)と推定され,やはり大谷石風で,人工的に切り開かれて残った崖の上に鎮座してあった.  迫り来る日暮れと競い合いながら,人工の崖を這い登ると,二つの祠を繋ぐ作り物の南北の参道は判った. しかし, 南行するか北進するか,どちらも蔦葛と竹藪に阻まれて果たさず,はうはうの体で崖を滑り降りるばかりであった.
  崖の下の山裾で,先日別れを告げた祠[79]と再会し,更に新たに[81],直上に述べた改修中の[82]に遭遇したのを 最後に巡礼道を離れた. << [80]は,林中深いところにあり,恐らくパスした.>>

  ○昭和末の小遷座
   <帰還後のデスクワークによると,祠[75]を,またしても,パスした可能性が濃い. [76]〜[78]の推定も,更に 一祠の確認が未だで,矛盾に満ちている.>
  75〜78と,あるいは,もう少し先の番号の祠も,道路拡幅や構造物[上水道汲み上げポンプ場]のせいで数メートルか数十メートル 程度遷座された可能性が強い. その辺りの処は,デスクワークと,もう一度の参詣の結果を持って記載しよう.


 <初巡[第六回]99/12/11 午後>
◎ 五祠ほどスキップしたけれど,初巡を完成したものとします.

  ○懐かしき再会
  祠[73]が大修理中であったことは先回述べた. 行ってみれば,すっかり完成していた. この祠に限っては,先回の憂いを 部分的に修正せねばならない. つまり,台座は青味の御影石であったが,祠体の素材はそのまま組み上げられたあった. 快!
  話しを先に進めてしまうが,祠[82]も作り替えられていたが,擬宝珠を頂いた方形屋根の漆喰[モルタル]仕上げであった. これは,平成の改修のスタイル[平成十年代様式と名付けよう]なのであろう.

  ●祠[76]・大師/横峰寺
  先回見失った,それは先々回も見失ったが,[75]の祠は,土建業の資材置き場の裏側,直ぐ外におわした.
  その次がどこにつながるのかについても,かねてから,疑問を残していたが,[77]の辺りで行くへを探していると,突然に呼ばれた. 『此処だよ!』二丈ほど高みから. [76]が大きく遷されていることを恐れていたが,古今の地図の照合が5m以上ずれていて, 祠は,昔のままの姿,本瓦葺きで元の位置に座(おわ)した. [77,78]の二祠はやはり,道路の付け替えで,僅かに遷されていた ことも解った. いずれも,大谷石風のブロック造りであることは既に述べた.

  ○再び,[83],[84]へ
  上水道の組み上げポンプ場の崖の上の祠への本来の路を探った. 新祠[82]から,道しるべに従って,多分個人所有の梅畑の傍らを 抜けて,先回蔦葛の中に見失った路を,反対側から探ることになる. 外来ものの勝手な配慮だが,みち整備にいくばくかの御礼心を 表そうと,持ってきた鉈鎌で葛・熊笹を切り開く. コンクリート製の自然木写しの柵杭が見える. 漸く[83,84]に再会.
  それからの降り道も幾らか難渋した. 筋力的なことを言うのではない. 村里に向かう道は手入れは悪く,鉈鎌が役に立つ.  突然,個人住宅の裏手に出る. 手を伸ばせば届く位置に二階の勉強部屋がある. 思わず後退する. 草叢の下に,自然木写しの杭が あるから,正道なのであろう.

  ●村の中の祠
  [85]の祠から後は,当分村の中,道際にある.

  祠[89]は,81年調査では,木造本瓦葺きとあるが,モルタル・方形屋根の立派なものに建て替えられていた. 寄進の板札によると, 平成十年四月とあった.

    ○千手寺境内
  千手寺境内(門前)の三つ並びの祠[90,91,92]の下の二祠は,同じ境内(門前)の中で10m程東に遷されている可能性が強い.  想像だけで書くのは佳くないが,個人的には,今の配置に三つの点で異議がある. 81年以前のことは私には解らないから,81年 記録と比べて議論する. まず,三祠ともに祠材が変更されている,さりとて,統一されている訳でもない. 次に, 祠の向きが変更されている. 第三に,寺番への対応がやや強引とも言える.

  祠材で一番大きい変更を受けたのは,上の祠[90]である. 文字記録でも,写真でも花崗岩とあるから,本然の赤みの花崗岩で あったろう. いまは,漆喰(モルタル)塗りで擬宝珠を頂いている. 次祠は宮造り,その次は,漆喰の右祠に似せてある.
     方角で言えば,下の二祠[91,92]は共に北向きであったのを,今は,千手寺の堂宇を背にしているから,南向きに変えられた と言うべきであろう. その意味では,祠[90]は記録では西向きとなっている. 祠の方角は重要な意味を持つのでは無かろうか?
  寺番の対応は難しい問題を含むが,向かって右から[上手から]新しい木札で,七十,七十一,七十二と明示されていた. 右祠は 元来,大師二像のみで七十一番と呼ばれていた由で,『伝・七十一番』で宜しかったと思う. 更に上手の七十番と称するものは, 売買の伝承はあるものの,馬頭観音を祀るので,これ自体は認めて良かろう. 七十二と称する左祠は,本尊・大日如来は合致するが, 元来不明札所とされていた. その次の祠[93]は七十三番・出釈迦寺が明快なようで,七十二と称するは許容の範囲か?!

  よそ者が,とやこう言うことでは無かろうが,大もとの寺の境内(門前)にある故,安易に改易すると,それ以前の由来伝承が消し 去られる傾きが強いことを憂うだけである.

    ●また,スキップ
  五つの祠[93,94,95,96と変則110]をスキップしてしまったらしい. 今回も,『こちらへおいで! 先を急いでは駄目だよ』 と言う声は聞こえたが,山側に進むと,二十分余り余分に掛かる. 迷うと,更に充分十分の刻を費やす. 許されよ. 本四国の 最近接の過去の巡礼で,足摺岬を控えて,三十七番・岩本寺を挟む数十km[多ノ郷から中村まで]で列車を使ったことを思い出した.   窪川で降りて,接続時間に岩本寺迄走った. 陽はとっぷり暮れて,閉門同然の境内に形だけの参拝をした. 中村の宿に, 到着が23時になることを電話した.
  此処では,自宅発着だから,そんなに厳密ではないが,18時には帰宅することになっている.・・ 仏罰覚悟.

  祠[101]は,道路の改修で遷されていることを予測していたが,恐らく元の位置に座[おわ]した. 西向きで,夕日を真っ向に 受けて・・,佳いお姿であった.
  その後も,いくらか順逆が乱れる. 直下に書く二祠[103,104]は,初回のとき,初祠を探すとき にまみえるはずであったが,[102]らしきものから繋ぐことが出来なかった. 今回も,そこはスキップしながら,八十八番迄進んで, 帰り打って,[103,104]への道に分け入った.

  ●『深山』の祠
  第五回二節で,村中の,守り護られた祠に出逢って,思わず落涙した話しを書いたが,祠[104]は『深山』の中にあって秀逸の 感が深い. そは,落葉して,昼ならば薄日の射すような林中に,さりげなく,おわした. 何の手入れの跡も感じられないが, 熊笹や蔦・葛に冒されることもなく,あるがままに,おわした. 『深山』とは,明らかに,筆者の誇張である.
  雨が降れば小さい谷川になるような踏み分け道を100m少々登るだけで,標高も,30mあるかなしかの位置であるが, 周囲に畑も無し,この地固有の竹藪も無し,果樹・柿木の一本も見当たらぬ地形であった. この地の札所巡りの話しを日常の 中でするときには,説明が長くなるので,『野の仏を訪ねる』と言うことがあるが,まさしく野の仏の風情であった. 此処の 祠材は残念ながらブロックとコンクリに代わってしまっていたが,一番だけ下手の仏[103 八十二番寺]は,恐らくそれが 本来の形であろう,赤みの花崗岩のを組んだ祠に守られてあった.
  その意味では,此処が何番寺であるかは意味は薄いが,仏背の舟形の刻字では,八十一とも八十三十も読めるが,八十三番寺 に相当するらしい. 本四国では讃岐・一宮寺で,筆者には巡り得ていない寺であるが,彼は町中にあるらしいことが気になる.  八十一番ならば,白峰寺で,浅い山に存するらしい.

  ○有り難うございました
  五つの祠をスキップして先に進んでしまったことは,途中で完全に意識していたが,三十分の時間を惜しんで,今日で 初巡を一応打ち上げることにした. 正味時間にすれば,六回で二十時間余りの遍路であった. 薮の茨に頬を切り裂かれたこともあり, 踏み外して数メートルの崖を滑落したこともあったが,大きく怪我することもなく,結願を迎えることができた.

  今は,未だ文字にならないが,本四国での感慨を上回る出逢いもあった. 上にも書いたが,何度かは,『此処だよ,おいで!』 と呼び招かれたこともあった. ただ,有り難うと申し上げる.





  俗世に戻るべく,夕飯の材料を購い求めて,自転車を走らせていて,・・ 
転倒! 左膝を痛め,左手をしたたかに挫いた. 仏罰.  1999/12/11 18:13.

この巻, おわり.



 <初巡[〆]00/01/10 午後>
  ○へんろ・記念日
  年が明けた. 年末に,一応の打ち上げとしたものの,やはり,心に引っ懸かる. 新しく改訂された『成人の日』の休みを利用して, 先にスキップした祠を巡った. この日,改めて〆を試みたのには,もう二つ理由がある. まず,98年の還暦前の正月に本四国巡り を始めた日に,阿波の国では,笹や熊手を持つ人が多かったのを思い出す. 日記を繰れば,確かに『初恵比寿』の日であった.   つまり,きょうは私の,『へんろ・記念日』. 加えて,一層属人的な理由だが,転倒から一月たって,ブレーキレバーを握れる ところまで回復した.
  急に思い立った地図無しの参詣で,ほぼ順路を確認したが,またまた,[95=六十一番B・香園寺]には 到達できなかった. 地図で確認したところでは,里山の元の山頂の,県道73号線で切り取られた崖の上のギリギリの地点に, 危うく残っていると推定される. [94]の先を,かなり高く迄進んで崖に達したが,崖っぷちを進むことを諦めた. その, 20m程南にあるらしい.

  ●たちくらみ   正味一時間ほどで巡り終えたが,見残しや予想外れで,紆余曲折した. 林中で,右するか左するか,二度見当違いの方向に進み, 二度は明らかに,『呼び寄せ』られた. 二度立ちくらみのような状況に陥ったが,身体的理由[空腹]ではない. 一つは明らかに, 本四国での体験に結びつく.
  記憶に間違いがなければ,十一番藤井寺に到達する直前のほんの僅かな距離で,本格的な『古道・遍路みち』に遭遇した. その ときは,下に詳しく書くように,歩き通した後の悦楽であった. 縮小されたものだが,あのときと,まるで同じ身体感覚 であった. 千手寺前[90,91,92]から次に進むのに,平易・安易道のほかに,一旦村落の中に降りてから進む,多分本来的な 道を後で再発見したとき,左側は人工の竹生け垣だが右側が切り落としたままの埴生の山肌で,ほんの3〜4mだが,おもわず よろめいた.
  もう一回は,それほど深い意味はないが,[102]=八十一番・白峰寺を事実上の打ち上げにしようと近づいたときであった.  おもえば,ここへは,最初の路探り以来,全部で四度目である. 『仏の顔も三度(まで)』ではないが,「また,来ました」と 頭[こうべ]を下げた途端に,くらっと来た. 安堵の情に因るのであろうか?

  一方で,夕暮れなどの理由で,ゆっくり拝見できなかった祠のたたずまいを,明るい陽の光の元で再拝して,鼻白んだ思いも 無いわけではない. このようなことは,余り書きたくないが,絵はがきにできるほどの撮影に成功した祠を更に佳いトリミングで 迫ろうとして,光線の角度にまでは注文は付けられないことを思い知らされた.
  同じように,祠の後ろに山柿がたわわに実っていたのが,先回の写真の枠の中に収まっていなかったのを残念に思い, 再訪したが,他に木の実の豊かな年なので,山柿はほぼ同じように残っていたが,霜に当たって落柿寸前で,とうてい絵には 成り難かった.

  ○本四国十一番・藤井寺へ[古道・遍路みち]
  本四国の体験を,記録を見ないで,想い出すままに記す. 藤井寺へは,藤の花が丁度済んでしまっていて,残念な思いをしたので,そのような 既に暑い時期であったろう. 日帰りの,三度目の歩きで,徳島の駅から七番・十樂寺までバスを使って,そこから繋ぎ始めた.  八番・熊谷/九番・法輪/十番・切幡/十一番・・と続く. 切幡寺は山懸かりだが,その後ろに控えている難所に比べれば初心向けで, あとの寺寺へはほぼ平坦地でうねうねとした道が続くだけである. しかし,総延長は短い一日の行程としては長く,藤井寺を詣でたら, 帰途に着くことにしていた.
  切幡寺のお山を降りて藤井寺までは,改めて地図を見ると,直線で7kmを超えるから,経路では12kmに迫るほどであろう.  吉野川の河川敷で,人参の収穫の甘い香りの風を嗅ぎながら延々と歩いたのを想い出す. 切幡寺迄に既に15kmほどは歩いて いるので,藤井寺への最後の2kmは文字通り足を摺る思いであった. 道際には,『遍路みち保存協力会』の案内の道しるべが 丁寧に準備されていた. 最終の岐路で,めったに道を訊かないものだが,ジャージを着た地元のオッサンに右か左か訊ねた. 彼は, 一瞥して,『どちらでも到達できるが,こっちの方が辛いけれど,こっちを選びなさい.』と教えてくれた. 足を引き擦っているのは はっきり解ったはずなのに,辛い路を勧めてくれた.
    実は,蜜柑山を一山越えるだけの,遍路ものにすれば何ほどのこともない2kmであったが,その男を恨んだ. 25km余り の歩きの後の2kmを呪った. 藤井寺から駅に帰り着くのに4km程の道が約束されている.

  蜜柑の作業小屋の裏の狭い土塀の隙間のような処に,遍路みちの案内札が立ててある. 誘[いざな]われて進むと,それが古道 であった. それまでにも,遍路みちを復元したところは二度三度歩いた. 切幡寺への接近でも遭遇した. しかし,それらは, せいぜい「コンクリートを使ってない工法」の域を出ていなかった. 藤井寺に近づく最後の100mは,私の記憶の中で甘美な ものに置き換えられている虞はあるが,自然物か人工物か区別の出来ないものであった. めまいがした. 思わず,素足になるか, 草鞋があれば履き替えたい心地であった.

  駅への道すがら,自家用車を走らせる初老の夫婦へんろの人が,駅までの同乗を強く勧めてくれたが,楽をさせて貰う気にはなれ なかった.・・・ のを,まざまざと想い出す.

     いよいよ,終わり.