ぶらり遍路[三巡目?・まずは讃岐]


2003年夏〜 


背景の色 灰桜+
TEXTの色 紺瑠璃

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< またまた > 03/09/23

およそ2年前に 病を得て ,退院から1年半余を迎えます.
 『完治』 する性質の病ではないので,体調をみながら,讃岐の国を少しずつ歩きます.

『第三巡』 と数えるのはおかしいが,敢えてファイルを更新しようと考えます.
 順序良く巡るのではなく,部分的に繋いで歩くことになるでしょう.


スタックアップで書いていますから,大きい塊では上ほど最近の記事ですが,
近い日付では,下に向かって読むほうが意味がよく通じます.

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Web ページを改めます (04/03/21)

間もなく、サラリーマンを辞めます。
だから・・でもないが、やはり・・だから、『サラリーマン遍路』 は、気の持ち方も、形態も変ると思います。
Web 頁を、Web そのものを、新たにする予定です。



横峰寺へ (04/06/01)

一週間前に書いたことですが、義理の叔母のお経納めのお寺としては、真言宗の中でも御室派を選びました。
八十八ヶ寺の多くは真言を守り通していますが、その中で御室派は多くはなく、拾寺とも拾壱寺とも数えられます。
このところ、讃岐参りを続けていましたから、意識しないままに、この宗派の寺を回っていたことに気づかされます。

龍光・佛木寺の印象は強いものの、今回は、ほとんど迷うことなく、東予・横峰寺にしました。
自分の中に、指折りの難所を目指したいと思う心が無かったわけではありません。

境内に石楠花が植え込まれているという記事に眼が止まって、それを期待する気持ちもありましたが
見事のに裏切られました。  深山の中にあって、五月初旬には花が終わるのだそうです。



納経所にて [護持してゆくこと] (04/06/01)[06/03〜07 加筆・修正]

   <特定の寺のあり方を攻撃しようと思うのでないことは読み取ってください。>

  これまで、ご朱印を頂くことはなかった。 私の遍路が信仰心に根ざしていないことにも拠る。 また、『バスの添乗員が 御朱印帳(正しくは納経帳か?)を両手に抱えて走る』 ありように反発を感じている所為もある。
  今回は、心底、お経を納めて、ご朱印を頂いて帰り、残された人たちと亡き人を思い出したいと思った。

  そんな経緯だから、ひと寺参りで、帳面仕立てにすることは考えなかったので、文具店で色紙[しきし]と畳紙を求めて持参した。   納経所で発心を話してお願いしたが、色紙には仕立てない決め事だと断られた。  私は、一方で自分の不明を恥じながら 『額に入れて麗々しく 飾る積もりはありませんから・・』 と喰い下がったが、定めごとには逆らえなかった。  結局、一葉仕立ての墨蹟と御朱印 を頂いた。 <引き下がろうかともしたが、今回は、ともかく御朱印が欲しかった。>
  お布施を差し出そうとすると、若い僧は、私が金子の額に困っていると思われたか 『三百十円お願いします』 と澱みなく言われた。  こちらも、当節、三百円 (程度) と言うことは知っていたので、(反発心もあって)『三百と・・十五円ですか?』 と言いそうになって 声を飲み込んだ。
  呑み込んで、初めからそうしようと思っていた通りに、紙幣を二つに折って 『これを お納め願います』 と言った。

  <突然に、『お神籤を 買う 』 と言って恥じない某国営TVのベテラン・アナを視た日のことを思い出した。>

  宗門の護持の/霊場の維持の困難さを思う。  余人の軽薄な批判に意味がないことも判っている。・・・  このお山は、 観光バスが入る道造りを最後まで拒んで、『霊場中唯一の難所』 とまで称されたことも知っているから。・・・

  四年ほど前だろうか? 初巡のとき、境内の自販機の缶飲料が¥150だったのに魂消たことを思い出す。  此度は、値上げ されることもなく <皮肉ですよ。 もちろん!> そのままだったが、中食の備えを忘れたのを補うためにリアル○ー○○ を二缶 (此処では瓶入りではない!) 飲み干した。  甘露!

  こんなことを書き止めようとするのは、私の信心ごころがないことを告白しているに過ぎないが、特定の宗教宗派に 身を委ねないのであって、大自然の霊のようなものを探って彷徨っているのだが・・・
  翻って考えれば、灯火も献じない、香も焚かない、賽銭も捧げない、と粋がっていたのでは・・・  己は、この自由主義経済の中に在って、 霊場護持に、何の助力もしないことになるのではないか?  
  一時訪れて、手水で漱ぎ、山の霊気を吸って、力を授かって、日常世界に舞い戻るのでは身勝手が過ぎようぞ!?  とはいえ、お山のことは歩きながら答えを頂こう。   日常に戻って、机の前で考えるのでなく。



山路にて (04/06/01)[06/03 補筆]

  日曜に、村仕事で、溝さらえの使役に出た所為もあって、肺腑の調子は万全ではなかったが、梅雨の季節でもあり、 今日を除いてはチャンスはないと思って家を出た。  四国に渡る実質一番の列車を選び、八時半から歩き始めた。   五十九番側からの順打ちは時間も距離も掛かるので、伊予小松駅に降り立って、六十二番(宝寿寺)から六十一番(香園寺)、 同・奥の院を経て逆打ち・往復の道を選んだ。

  途中、あと十四・五丁というところで、石積みに座り込んでいたら、一見歩き通しの老遍路に声をかけられた。<私も年金手帳を手にしながら 『老遍路』 も可笑しいか?>  『相当に疲れましたか? (歩き通しの) お遍路ですか?』 どこかにも書いたように、道の上では余り話をしないが、 しばらく話を交わした。
  『備前の国から来た、日帰りでね。 (逆打ちでなく) また、この道を戻ろうとしてるんです。』 『[勘違い して]それは勿体無い! 此処で引き返さないで、ひと頑張りして、お寺まで行きなさい。』
  つい先ほどまで、此処で引き戻そうか?!  今日は、敗退しようか?!  と、拾遍以上も座り込んで、すっかり弱気になっていたのが 表情に出ていたのだろうか?  その言葉に背を押されて、残りの道に踏み出すことが出来た。

  伝承によると、逆打ちすると大師に遭える (遭える確率が高い) と言われる。  あの老人は、弘法大師であったのだろうか?
  閏年には、逆打ちすると良いという伝承もある。・・・



山路であった生き物たち (04/06/07 掲示)

  先 [せん] にほぼ同じ往復をしたときには、猪の 『ぬ(の)たうち場』 に、明らかに二度出遭った。  いずれも、我々の 風呂場より狭い領域だが、二つに割れた、 明らかな蹄跡まで残っていた。  此度は、それほど明瞭ではなかったが、一箇所 それらしい痕跡はあった。  毛くずや、臭気は残っていなかった。

  登り道に差し掛かったところで、沢蟹に出遭った。  そこは、標高150mあたりの地点になる。  大人の男の親指先ほどの 大きさで、淡い竹緑の中に甲羅の背中辺りが薄紫であった。  色づき始めた葡萄の配色とでも言おうか?  沢から余り離れて なかったから、偶々そこに居ただけかと思ったが、その後、みちすがら数度遭遇した。  800mを超える、横峯寺の境内でも、生きていない ものだったが、アスファルト路上に形を見た。  しかも、複数体あった。

  山路を往くとき、更に出遭ったのは、蚯蚓であった。  しかも、とてつもなく大きい。  積極的に移動するために、伸びきったら、 50cmに達しそうである。  静かにしているときには、太さが、大人の女の紅差し指ほどあろうか。  紅差し指と形容するには 色はどす黒い紫で、いささか、怖い雰囲気であった。  余りにも度々出遭うので、危うく、踏みそうになり、避け損なうと 転倒しそうになった。  もちろん殺生したくない気持ちが先に立つが、仮にその様なことに鈍感・無頓着でも、踏むと 足をとられること必定であろう。  雨上がりの所為であったろうか?



納経のための参内 (04/05/24)

  <讃岐一国巡りがほぼ仕上がって、ファイルを変える予定だが、いま少し書きます。>

義理の叔母に当たる人が、俄かに亡くなりました。
親族には、思い残すことが少なくないでしょうが、患うことの無い、いわば、潔い最期でした。
その連れ合いを亡くして、写経に没頭する日が続き、数百葉の般若心経が残されてありました。 圧倒される量でした。

それを目にして、即座に、四国のどこかの寺に 『納める』 ことを思いつき、残された人たちの快諾を得ました。
全部を納める積もりはありません。 一寺一寺に納める大仰なことも望みますまい。
生前に行き来のあった真言の導師による告別式だったので、八十八寺の、ふさわしい一寺を選んで納めましょう。

私としては、初めての、ご朱印を戴いてきましょう。 ほんとに 『納経』 してきましょう。



讃岐国・まだまだ (04/05/14) [05/16記載]

  梅雨というには早いが、雨続きの中に、嘘のように晴れる日があった。  10日ほど前から、約束を入れていて、[ということは?? 雲辺寺に参ったときには 決まっていたと言う計算だが・・・  まっ、それはともかく] 天気予報が定まらない中の快晴だった。  足元が滑ることだけは懸念されたが、七十九,八十,八十一番を  [できれば、八十二番も] 目指した。  ここは、どこかに書いたが、遍路みち全景の縮図みたいなコース [プチ遍路] で、しかも在所から近いこともあり、とりわけ、 気に入っている。

お遍路に、『気に入った』 などとは不遜だが、許されよ大師!

  これまで、この路へは、初秋と初冬に入った。  9月の末と、12月になっていただろうか、それぞれ風情があったが、まったく趣を異にしていた。  今度は、 欲を言えば幾らか時を失して、眠っていた木樹が目覚めた刻から三週間ほど経って仕舞っていたが、まさに風薫る晩春、いや初夏と言える。
  八十一番から八十番に打ち戻る山路では、延べて、十人ほどの人に遭った。  これほどの、歩き人に出遭うのは珍しい。  我われのような、直ぐに判るトレッキング族 もあれば、身なり形の整った七十そこそこの老夫婦 [なんと、八十から八十一番への順打ち!!]、装束装備からして 歩き通しと思える三人それぞれ、風に乗るように鈴を 鳴らして走り去った20代 [多分20代] のファッショナブルな女性・・・  話しかけたり、目顔で挨拶したり、話し掛けられたり。
  距離にすれば、五里余りの、短かめの路だったが、先週の[体育会系スタイルの(?)] 雲辺寺と対蹠的な柔らかい旅であった。

柔らかい遍路 のありかた・・・ などとは、また許されるのだろうか? 大師よ!   大きいトラブルなく歩けたことに感謝。



讃岐一国参りの締めくくり (04/05/05) [05/07記載]

  4週間ほど前に 『一区切り』 と記しておきながら、どうしても気になっていた、讃岐の一番寺・雲辺寺に行ってきた。

  順路に従って、伊予の仕舞い寺・三角寺から入って、椿堂を経たのでは、JR駅に戻り着くのに地図上で40kmを超える。  実際には、50kmに迫る行程になるだろう。   結局、JR観音寺駅発着のスケジュールを組んだ。  自宅を早朝5時前に発って、マリンライナーの1号に乗り、特急を乗り継ぐと言う、猛烈サラリーマンさながらのダイア になってしまった。
  結果的には、萩原寺経由で、昇りだけケーブルの援け得て、7時半歩き始めの18時打ち上げで、無事に、一日を終わった。  7時に観音寺駅からスタートする選択もあったが、 (いずれにしても神恵院/観音寺はスキップ)、本山駅から歩いて、本山寺経由を選んだ。

  みちみち、麦が色づいていた。  その昔、『麦の秋』 と呼んだものとはどこか違うが、美しい黄金色だった。  風に乗って、花の香がする。  藤・贋アカシア (ハリエンジュ) とは、明らかに違う。  みかんの花であった。



歩き果てた感覚 [04/05/11記載]

  ここで、遍路歩きの精神論を述べる積もりはないが、結果として、幾らか残念な 『締めくくり』 となった。  つまり、歩き遍路の誰しもが求めることの一つに、 (・・と私が考えるのだが)、歩いて、歩き果てた後に、大げさに言えば幻覚・幻影みたいなものに遭遇する愉悦がある。  それが何処か、思惑違いだったことである。   ケーブルの中で、四里足らずの道のりの、歩き果てた感覚がきれいにリセットされてしまった。  そこで、伽藍・み仏に遭遇しても、有り難味が少ない。   『歩き果てた (身体的な疲れの)』 感覚のきわみが、帰途の電車の中にあるのでは、・・・

信心のない、サラリーマン根性から抜け切れない漢 [おとこ] の勿体無い・・ 不埒な・傲慢な・・ 欲と言うべきである。

==
  5/6に、安芸国・宮島のロープウエーで、3時間余の宙吊り事故が起きた。  不信心漢に、そのような仏罰が下らなかったこと・・・に感謝。



讃岐路のひと区切り (04/04/10)

  やがて、遍路のスタイルを変えるだろう [必然的に変るだろう] ことを予測して、八十三番まで続いた讃岐路の旅のひとつの区切りとして、八十四・屋島/八十五・八栗 /八十六・志度を歩いた。  八十七番と納めの寺は、四つの国を終えたときに、参詣する予定にして。  それと、雲辺寺さんは未だだった! ・・・
  例によって、あまり早出はしないで、10時に高松駅をスタートするノンビリ旅になった。  それでも、起床は六時半。  終わってみれば、20km 強 [平地換算] 、 正味歩行時間約6時間半。 <体重減少=脱水量約2kg / この季節、10km 歩いて 1kg 減の計算になる>
  高松駅から、「浜街道」 をゆったり歩いて、75分ほどで、屋島登山口に至る。  この路は現代の道で、讃岐別院経由の11号線に塗り替えられた遍路みちとは違うが、 いつも屋島を正面に捉える意味で、わかりやすい路である。  
  登山口からの昇りが大変だった。 漠然と、お山の高度は500m あると思っていたが、実は、300m を少し切る。・・・にも拘らず。  予想していたことだが*)、 300mの標高差を昇るのに、6回休憩を余儀なくされた。  三度、引き返そうかと思った。  結果的には歩き通せたし、また、幾つかの良いことがあった。

  *) 経口抗癌剤を間欠服用して、再開3日目は、心身ともに一番厳しい。・・・ ことは判りながら、歩きに出た。



お大師さんの採配? (04/04/10)[11日加筆]

  また、道の上で話をする人に出遭った。  今度は、60絡みの、いかにも実直な勤め人風の男性だった。
    <2月21日に出遭って、3月22日の記事にもしたのは、実は、若い女性だったのだが・・・  それは、必ずしも本質的ではないが、今の場合、『実直な勤め人風 の男性』 と言うのは、いくらか、意味がある。>

  屋島の昇りにヘコタレて、加えて、急な降りに膝を痛めそうになって、八栗の昇りにはロープウェー (ケーブルカー) の援けを得た。 ケーブルカーの相席になった その男性は、10分あるかないかの搭乗時間に、文字にすれば100行を超えるほどの、彼の 「旅」 について語って呉れた。  「旅」 の動機だけは訊きもしなかったし、 聞かせても呉れなかったけれど。
  要点はこうなる;−
首都圏に住んで、足掛け10年で此処まで来たこと。 今回は、8日に歩き始めて、白峰/根香・・ から始まって、恐らく、志度で一旦帰京すること。 時間が掛けられないから、 公共乗り物を避けないで、歩けるだけ歩いたこと。   など、など。
  私の中には、短いながら (高度差150m程度)、ケーブルの援けを得たことに釈然としない思いがあったが、この人の八十五番寺に向かうウキウキした顔を見ていると、 そんなことは些細なことだと教えられた。  <四国を巡る時間と余裕が与えられたことに浮き立った笑顔と見受けた。>

  書き止めておきたいことは、そう言うことではない。・・・ 彼は、時間を惜しんで、「お先に!」 と言って、降りのケーブルカーで、志度寺に向かった。   「志度までは、二時間歩けば、充分行けますよ。 (15時15分前)」 と奨めたけれども、その先は電車を使う予定だとも言われた。  その瞬間、不思議な映像が 頭の中を過[よ]ぎった。 ・・・ 電車で志度に向かって、参詣を済ませて、再び駅まで戻る彼に、歩いて志度に向かう私が遭遇する・・・ 時刻は17時少し前 [詳しく書くと・納経所が閉まる直前の時刻] !!!

  八栗からの降りは、私は、ケーブルを使わなかったが、志度に向かう歩きは、この幻の映像を再確認するためにあったように思う。  果たして、志度寺山門手前200m 程の地点で、彼に遭遇した。  時刻、16時30分。  『ご朱印は頂けました(間に合いました)?』 『また、遭いましたね』 『残すところは、長尾と納めの寺ですね。  佳い結願を!』 ・・・ リアル映像は、こうして、フェイドアウト・・・  実直な勤め人(?)は、実に充足した笑顔だった。  彼は、今年中に結願できるのだろうか?   また、来年になるのだろうか?

  お大師さんの採配 [さはい/差配] というものがあるとすれば、今日の体験は、その具現に違いない。

  2月21日の体験も、やはり、お大師さんの採配なのだろう。



この旅の隠れた目的 (04/04/10)[17日補筆]

  身体的にきつかったが、八栗で打ち切らずに志度まで歩を進めた理由は、進めることが出来た理由は、実は、もう一つある。  それほど重要なことではないが、 内容的には余りにも俗世間的で、書くのをいくらか憚るが・・・・。

  牟礼町と志度町の町境に、当然、それぞれの運営する下水道にも境界があるはずだけれど、遍路みちの上に、それぞれのマンホールが3m程隔たって、存在するケースがある。   そのようなものの存在は、当然と言えば当然だが、先巡で発見して気になっていたのを、ぜひ写真に残したいと思った。
  志度町は、平成15年4月1日に、他の町村と合併して、『東かがわ市』 となったが、牟礼町はあとで確認すると、その合併に関与していないから、今でも、市町村の境は 意味を残している。  それは、『平賀源内邸』 から数百米志度寺よりに待っていてくれた。

  左が牟礼町のマンホールの蓋/中央の町章は仮名の 「ム」 の字のデザインで、糸巻き型の正三角形(菱の実型)。  右は、志度町のもので、祭りのデザイン/外周部分に 「しど」 、「おすい」 とある。





嬉しかった報らせ (04/03/22)

  下に、ちょうど一月前に、へんろみちで出遭った人のことを書いた。  躊躇いながらも書いた。  一つは、どんな些細なことでも、相手の気持ちも考えないで、勝手に 書く不遜を思った。  それより何より、荷物の重さを見たからである。 <2月21日の記事には敢えて、書かなかったけれど>  所作の美しさの中に、肩の力の抜けている様に、 ひたむきな形に、それを見たからである。

  互いに名乗らず、一方的に、此処の URL を押し付けて別れたが、数日後にメールを頂いた。  昨日、またメールが届いた。
この月の上中旬に結願を果たされ、高野山詣でも済まされたという。  因縁で、昨日、この WEB を更新している作業の最中に 「(今)読みましたよ」 と、届いた。   嬉しい便りだった。  ずっと、心の隅で待っていた報らせだった。

  その人の旅は、親族同然の人の、これからか新しい家族を創るはずだった人の魂を鎮める道中だったと・・・ その経緯は知らない。  それ以上のことを訊こうともしない。

  これから、思い出すことの辛い、忘れることは一層辛い、日々だろうけれど。  佳き、日々を ! と希う。





 卒業旅行 (04/03/21〜22)

  学生達の間で、『卒業旅行』 という言葉を、近頃は聞かないようになりました。
風俗・習慣として定着したのからでしょうか?

  今回は瓢箪駒で、週央に送別の宴などの行事を組んで頂いて、気疲れ・胃疲れしていたところ、家人の 「歩いてきなさいよ!」 の一声で、予定を組みました。   一応の順路は屋島・八栗・志度でしたが、アップダウンは如何にも厳しいので、弥谷〜善通寺を選ぶことになりました。  弥谷寺は、これまで、二巡に加えて、 弥谷から海岸寺に出る、三時間遍路で訪れているので、四度目になります。
  ここは、個人的には、アプローチが好きで、しかも、山を降るときの竹林が、また、得も言われず心静まります。  適当な言葉がないので、アプローチと記しますが、 集落から離れて、愈々お山に向かうところで、二十体ばかり残る石仏に遭えるのです。  私の解釈に違いがなければ、行き倒れた人の墓標らしきものも混じります。   二丁半ほどの、車道から隔てられた、不思議な空間です。

  竹林での、ささやかな、気付きについては下に書きます。  平地に降りてからは、軽快なテンポで進むことが出来ました。  道違えをして、十五分ほど迂回しましたが、 それもよし。  全体では、一列車早めに、駅 (善通寺駅) に着きました。  例によって、未だ日は高いので、次の金倉寺 (金蔵寺駅) まで ?・・・ とも思いましたが、 これが正解でしょう。

  年甲斐もない 『卒業旅行(センチメンタルジャーニー)』 。     しみじみと、佳い一日が過ごせました。  感謝。



杖の飾り物
 (04/03/21)

私は、初巡の一番寺で杖を購めたが、結局帯同することはなかった。  私の歩みには [スタイルではなく、テンポに] 馴染まないから。

七十三番・出釈迦時寺に到着すると、杖立てに、可愛らしいぬいぐるみを見つけた。  しかも、4〜5体、提げてあったろうか?
寺内に並べてある、お土産・守り仏の例は珍しくないが、ぬいぐるみは珍しい。
俗っ気に引き戻されて、杖の主をそれとなく待つ心地になる。

敢えて、還暦を越えているとは言わないでおくが、・・・ 同窓会で (私が) 遭遇しそうな年格好の婦人であった
思わず、微笑んでしまった。

ただ、判らない。  『その人の娘さん』 の持ち物だとすれば、・・傍目に、微笑んでいる場合ではない。

いや、立居振舞からすれば、ご本人の趣味に違いない・・・
熊さんのぬいぐるみは、多分、M製菓の何月何日ものかな・・・  と思う不謹慎。




 気付かされたこと (04/03/22〜25) [26日全面改訂]

  ほぼ順序通りに一巡させていただいて、更に変則的に、延べて、五十ヶ寺ほど過ごしただけだから、人様を案内するのは未だ未だであろうけれど、初心の方 (ヴォーカリストで、ヴォイスデザイナー*]の人) をあないすることになった。  定め通り、一番寺から歩み始めるのが作法であろうけれど、我も掟破り、彼も後で聞けば 『南無遍照金剛』 の家に生まれても、踏み出しはトレッキングの感覚であるというから、大師許されよ。

  弥谷寺からの降りで、最初に、竹やぶの中を通ったとき、『無響室』 のように音が吸い込まれてゆくことに気がついた。  多分同行の人の、鍛錬された耳がそれを捉えて、 無言で教えてくれたのであろう。  次に、坂道を下るとき、同行の人は足元が不安になったので、『柔道歩きしたら!』 と提案したら、たちどころに 『判った!』 と、 重心の移動させ方を飲み込んでくれた。  後で訊くと、自分の体のありようをよく理解すると、良い声が出るようになる・・・ という研究を実践し・教えているのだそうだ。   プロだなと思う。

  このような遣り取りの中で、ふと気付かされたことがあった。
それほど特別のことではないが、人の 「才能」 についてであった。  特に、近年の公教育・家庭教育では、才能を丸かペケで表現してしまう。  確かに、丸とペケで切り 分けるのは、アーティストやアスリートの世界では厳とした差かもし知れないが、大多数の普通の人にとっては、多分間違っている。  教育倫理論的/アルベシ的な意味で、 『間違っている』 と言うのではなく、アートやアスレティックの才能はなくとも、それらを愛し、嗜む人は多い。  必ずしも表現力がなくても 『判る』 のである。   頭で 『解る』 のではなく、『判る』とは?
  他方で、『賢い』 とはどういうことかなぁ・・と考えてしまう。  世の中一般からみれば、『算数ができる』 ことや 『歴史・哲学の知識が深い』 ことだろうか?   この切り分けも、一面の真理で、実は違うように思う。
  アートやアスレティックに話を戻すと、普通の人にとって、『判る』 には、・・・体でで判るには、その分野に関係なくてもよいから、自分の得意分野の才能を磨く ことによって、突然 『見え初める』 ことがあるように思う。  どうも旨く表現できないが。・・・
  脳の中の神経細胞 (ニューロン) が、不得意領域に向って、枝を伸ばしてゆくのだろうか?  『賢くなる』 と言うのは、狭い・得意領域で脳が磨かれることも 大事だろうが、不得意領域に枝伸ばしができるということ。・・・ かな?

  *] バディー・デザイナー と呼ぶと良いかも知れないが、ヴォイス・・ と記しておく、いずれも筆者の造語で、ご本人は 即座に 『違うよ』 と 言われるかも。



もう ひとつの・・・ カーサ (04/03/14)

少し横柄な書き方が許されるなら、サイエンスをするということは、アートをすることに近いものがあります。
ひとびとは、サイエンスとアートとは、対極・両極端にあると考えるようでけれど・・・
私は、切裂いたリボン状に見るからであって、実はその両端はリング状に繋がっていて、近い近い存在のように思います。
ただ、リボンの端の繋がり方は、メービュースの帯のようなのかも知れません。

もの創りの人や、もの書きの人には、天才の場合ですが、放蕩が許されます。
ここでは、対人関係の放蕩無頼でなく、時間の流れに対する 『放蕩』 に話を止めますが・・・
私の近親の者は、私のそのような性 [さが] を指弾します。  空間に対する 『無頼』 のことも言い立てます。
<もちろん、天才性を認めて言うのでなく>  サラリーマン的でないことを・・・ です。

『あなたには、もうひとつの家 (仕事場) がある!』 と。

『店仕舞い』 をしながら、膨大な書物・資料・試料を処分しながら、『そうだね』 と独り言を言っています。
『もうひとつの城』 と言いたいところだが、『もうひとつのカーサ』 と表現しておきましょう
『城』 と、語源の方を採用して頂くか? 当節の、カタカナ語の 『おうち』 と理解していただくか?



弥生三月 (04/03/13)

三月は、どんな人にも、そぞろ気が急く季節でしょう。
私にとっては、どこかに書いたように、今年は 『店仕舞い』 の特別な季節です。  『歩く』 いとまはなさそうです。

更に個人的なことを書くことを許してください。 三月は、亡父・敬治が生まれた月で、亡くなった月です。
朔日に生まれて、殆んどつごもりの28日に果てました。 私と同業者(?)で、音響学を体系付けようとした (?)人でした。
私が、歩きながら、寺々の梵鐘に目を向けるのは、DNA が呼ぶのかも知れません。
今頃になって、その人の博士号対象論文を、初めて、読んでいます。



四里か四里半 (04/02/21)

  国分寺を起点にして、鬼無駅から南東 (一宮) に、更にその先に、歩くことを2/18にイメージしたばかりだが、暖かい日を迎えて、急に半日歩きを思い立った。   結果的には、栗林公園にまで到って、帰宅した。  一宮への道は、3年半の年月を隔てて、かなり変っていた。  香東川を過[よ]ぎる潜水橋は昔のままあったが、 自動車が我が物顔に走るのは嬉しくなかった。



三尺のみち (04/02/21)

  鬼無駅から一宮へ行く道はやはり佳い。

  初巡のときから千弐百日ほどのときを隔てて、幅が二尺か三尺かしかない踏み分け道までが、アスファルトで覆われていた。  田圃の人の便宜?  生活道?   哀しむのは、パッセンジャーの身勝手だろうか?
  鬼無駅を基点にしたときに、5分ほど歩いたところで、旧商店街を横切って、最初に道を失いそうになるところがある。  先巡では、その先に、軒先に、一畳台に 花・野菜を並べて商う老婆の家があったように覚える。  狭い路地道を塞ぐほどに並べていたので、『この先に進んでも佳いのかなぁ』 と迷ったことを思い出す。   そこでは、家屋の改築の最中である。  サッシのブロンズ色に、却って、違和感を覚える。

  されど、この道は、全路・三百五十里のうちで、最も印象的な道の代表であることには変わりない。



道連れ (04/02/21)

  普通は、道の上で行き逢った人と話すことは少ない。  そこでは、それぞれが、重さの量も質も違うけれど、何かを背負って歩いていると思うからである。   今回は、若い人と行き遭って、少しだけ話をした。  追い抜かれ、追い着きしながら、話したので、正味時間にして (歩きながら)、30分ぐらいだけれど。
  声を掛ける気になったのは、その人のたたずまいに依るのかも知れない。  白衣も笠もない一人歩きで、杖がなければ、トレッキングとまでも言わない、散歩姿である 。  何より、心に留まったのは、肩の力が抜けていた・・・ と見てとれたからである。  さりとて、(杖も引かない) 私のような破れかぶれではなく、札所に到れば、 献灯・献香、札納めなどは形を外さず、綺麗であった。  清しかった。 <今の世の中、キレイ や きれい あるいは KIREI は色々あるだろうが、『綺麗』 という言葉は どこかに行ったかもしれない。  『古き佳き』 言葉なのだろうか?  MayBe ! >

  お互い、どこから来て、どこへ行くのか詮索するでもなかったが、もう一日 (日曜日を) 巡られる予定だとか。  志度まで行けたか?  健脚と見受けたが、長尾までは 無理だったろう。  来月には、結願だろうか?



道しるべ (04/02/24)

  へんろ道保存協力会の道標には援けられる。  このたびの道では、丸型・矢印シールが更新されていた。 従来は 45mm 程の直径だったものが、60mm になった だろうか。  すっきり・くっきりとなったが、個人的には大き過ぎるように感じる。  存在感が強くなって、この大きさが限度だろう。  くどいようだが、・・・   望むらくは、道標は 『需めたときに応えてくれる』 のが嬉しい。
  向こうから、手招きされるのは如何なものだろうか? ・・・ という間合いの難しさ。



たかが、四里半 (04/02/21)

  半日歩きということもあって、総計で、15km〜17km程度歩いたのだろうか?  直ぐ下にも書いたが、その積み重ねが、1400km になる。  一巡の1% ほどを歩いた計算になる。  高低差10mもない、平地ばっかりだったけれど。

  ・・・  遍路みちの中で、印象的な15kmの長さを探すとすれば、33号線の三坂峠から松山市内に降る一本の坂道であろう。  高低差にして約700m、長さは 17kmとも言う。  実際は、6割方降りたところで、別道に出て46・浄瑠璃寺に向かうのだが、圧巻である。  しかも、峠であるから、登らなければそこへ到達できない。   44・大宝寺からの登りは、10kmほど続いただろうか? ・・・

  されど、5時過ぎで、まだ陽の光を残していたが、高松駅まで頑張らないで、栗林公園前で膝を屈した。  一昨日まで、抗癌剤を服用していた身には、これぐらいが限度 なのであろう。  悲観的に言うのではない。  一夜明けて、明日になればまた、五里ほど歩けるだろうから。  このたびは、ここで在所に戻った。



積み重ね (04/02/20)

今更言うことでもないが、現代生活では、歩く機会が失われています。
普通の、内勤型のサラリーマンの一日の歩数は、全部で7〜8,000ぐらいでしょうか? 距離にして5km?

地図の上で、20km歩くと、実距離では、25km程になるかも知れません。
60cmの歩幅が確保できても、・・・  4萬歩を超えます。  道を間違えたり、迂回したり。・・・
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突然に、こんなことを書き始めたのには、理由があります。  3月末に、43年間の教師稼業/研究生活の幕を引きます。
(私的な記述が長くてごめんなさい)・・・  この稼業は、一人一業 (個人企業) なのです。  今、連日資料整理をしています。

昨日気付かされました;−  1年間に、片付け作業を1時間分貯めていたとすると、・・・  日々の作業を怠っていたということでなく、
仕事の性質上、『永久保存版』 が蓄積しているので、その整理に1時間 (年当り) 必要なら、・・・
40時間分貯まっているのです。  至極単純な算数ですね。
8時間労働で、5日分!   考え方によっては、非建設的な作業・・・

人の 『営為』 などというものは、そんなものだと思うのです。




冬篭り (04/02/18)

  ケーブルテレビが、『夢千代日記』 を NHK から借り受けて、放映しています。  『裏日本では』 とか、『表では』 という台詞がよく出てきます。   原作者 (早坂曉) の意識/夢千代ワールド の重要な背景です。  夢千代の話じゃなくて・・・  さりとて、遍路道に生まれ育った早坂のこと (はな遍路) が書きたいのじゃなくって・・・

  冬という季節は、『表』 に居ても、やはり動きにくい時候です。  深刻ではないが、体調へのいくらかの懸念と、年度末・期末という職業病的な圧迫要素の所為で、 10時間ほどの隙間が、なかなか、創れません。  国分寺 (讃岐) から、あえて鬼無駅横を経て、一宮寺に到るコースは、頭の中の CG では完全に出来上がっている にも拘らず。・・・  鬼無からの道は、雰囲気としては、稲穂が実る秋が最高なのだが、紆余曲折の道行きが面白いのです。

  一宮寺から屋島寺/八栗寺へのコースは、屋島の裾までの平地の10km余が、以前の経験では、人工的な街になってしまって、趣き少なかったように思います。 (琴電を使う選択肢はあるけれど、その気にはなれません。)  それに対して、屋島から八栗の降り登りは短いが強烈です。  この行程は、楽しみ半分・畏れ半分の コースです。  こんなことを想像しながら、冬篭りが70日余続きました。

  『初歩き』 は1998年の 『初恵比寿』 の日でしたから、この季節が絶対的に悪いわけではないのです。



讃岐の山路 (03/12/07) 

  讃岐の遍路道は,大方が平地か高々100m程度の高低の中に収まります.  その中で,涅槃の道場の初めの雲辺寺,納めの大窪寺は別格で,弥谷も屋島,八栗も ありますが,白峰・青峰の白峯寺から根香寺への道中が3番目の指折りに数えられましょう.  それに讃岐・国分寺への往還が加われば,三寺だけで,プチ遍路が完結します.
  この三寺の巡り方は,古来から様々だったようです.  つまり,国分寺から白峯寺に到るコースを取ると,登りが余りにも急勾配で,「へんろころがし」 に なっているため,白峯を先に詣でて根香寺に行き,「十九丁」 まで 「打ち戻って」 国分寺に降るのがひとつの選択です.

  今回は,鬼無口を降って,鬼無駅から南へは進みませんでしたが,一宮への田園の道も,紆余曲折が激しいが,私は好きです.  プチ遍路には,この一寺も加えるべき かも知れません.



綾錦 (03/12/07) 

  寒い日でした.  行く前から,山肌の木々の美しさは,既に時季を過ぎていると思っていましたが,今回の歩きでは散り葉の美しさを堪能しました.

  京には 『ふきよせ』 と呼ばれる菓子があります.  それには,海辺の吹き寄せと山路の吹き寄せが混じっていたように記憶しますが,この道の上で見たものは, まさしく吹き寄せられた,木の葉の重なりでした.  紅色の葉,黄色の葉に様々なトーンの茶色,臙脂から黒に到るグラデュエーション,未だほのかに緑色を残しているもの.   橡(くぬぎ),コナラ,欅,楓の類,山桜にサンキライ(さるとりいばら)・・・

  彩度・明度の高い色より,心が和みます.  途中何度も歩みを止めて,大きな息をしながら,何度も挫折しそうになりながら,此処まで漸く辿り着いた甲斐がありました.   この色は??
  これほどまでに,優しい色・・・   それは,正倉院の,千年単位の時に作られた,綾・錦の色の優しさでした.  この列島に棲む我々の,DNAに刷り込まれた色彩感覚かも??

  暫く経って(2004年正月に),平安の 『襲ねの色目』 の中に,いく種類かの 『朽ち葉色』 があることを知りました.



400m級の山 (03/12/07) 

  八十一番・白峯寺から八十二番・根香寺への道は,主に山の日陰側を進みますが,250〜350mの標高でしょうか. 初巡のときは七十九番・八十場から白峯に到って, いわゆる十九丁から国分寺 (讃岐) へ下り,そこで日暮れを迎えました.  日を改めて,国分寺から遍路ころがしをよじ登り,十九丁から根香寺に到って,東へ向かって 『香西口』 に降りました.  正確には,香西口よりも少し北東に出たので,一瞬方角を失ったのを覚えています.  国・県道の標識がどちらを向いても 『高松』 と 表示されていて困りました・・・  今度は,国分寺をスキップして,根香寺からは,『鬼無口』 (JR鬼無駅) へと降りました.

  登りは,前回と同じように,蜜柑園の中を進むわけですが,やはり途中から 「四国の道」 の道標が消失して,しかも一枚ものの地図のコピーを途中で失ったために, 白峯寺に到る最後の2kmで道を間違えました.  車道 [くるまみち] としては正解でしたが,最後の2kmのために5kmほどアスファルトを踏む羽目に陥りました.   先巡とほとんど同じ誤りです.  鬼無への下りでは,道を間違えることはありませんでしたが,またしてもつづら折れのアスファルトを5〜6km歩くことになりました.

  降りのコースでは,部分的に遍路みち保存協力会により復元された遍路みちがあります.  平成13年の夏に復元された道に遭えたことは喜びでした.  ただ急勾配で, 疲れた膝には堪えました.  つづら折れのアスファルト道を選ぶか,直截的・急勾配の遍路道を往くかは迷いどころでしたが,薄くオレンジ掛かった黄色葉の楓に遭遇できて, 迷いは吹っ切れました.  やはり,車道はいけません.



枯葉の匂い・散り葉の音 (03/11/30) 

天候がよくない週末が続きました.  讃岐の低い里山では,雑木が色づいて,葉を散らしているはずです.
鼻腔に枯葉の匂い,耳朶に散り葉を踏む音.  しばし,余暇が取れません.





善通寺駅から八十場駅 (03/11/08) 後日記載

  先の旅では,善通寺から金倉寺に行く時間を残しながら,体力より気力に余裕がなくなって,善通寺駅で列車に乗った.  そこで, 今回は,金蔵寺駅に降り立つことを避けて,善通寺駅まで行って,そこから再開した.  そこまで意地を張ることはなかろうという声が 聞こえて来そうだが,ひとつのケジメである.  たかが半里,されど2km.
  金倉寺へは簡単に到達できた.  歩を進めるに連れて,先回の参詣[2000年9月]の記憶が鮮やかに蘇る.

  多度津・道隆寺へは,県道経由もあるが,田圃の中に古道がある.  古道といっても,集落を縫うようにしてアスファルトの道や, 用水の上をコンクリート板で覆ったところが多いので,自動車も通る.  距離・方角が理解できているから,原則として地図を見ないで, 勘の趣くままに歩くことが出来た.  ただ,到着へあと200mのところで小さい間違いをした. 敷地外れにある道隆寺の庫裏の東横手 の墓地に入り込んでしまった.  大師堂の線香の香りが漂ってくるはずの距離で,人間・ナヴィが働かなかったことが妙に口惜しかった.

  次は,宇多津・郷照寺で,丸亀市を過(よ)ぎりすぎてゆくことになる.・・・・  今度は,み寺まで,500m程度接近するまで,先巡の 映像イメージが思い出せなかったが,最初に脳裡に現れたのは,寺外の 「閻魔堂」 であった.  その界隈は,門前町の風情も残して いる.  おお,そうだ!  寺院は,小高い丘の上にあったのだ.
  全部を石段に換算したら,150段程度であろうか?  


  八十場の高照院・天皇寺へは,今度は,坂出市を抜けてゆく.  厳密に言えば,そこは坂出市内だが,街の賑わいからは遠い.   高照院もやや高みに位置するが,その上り口のところに,弥蘇場の泉 (八十場大師) がある.  「既視映像」 という意味では, 水場に行く途中でJRの線路を横切るはずで,その通りであったが,何か大きな石の門のようなところを横切るはずが 「予想」 外れ であった.  あれは,何処のイメージなのだろう・・・ (悩む)・・・ (必要もなかろうけれど).

  日暮れが迫って,JR八十場駅に向かうはずが,駅の位置を読み間違えて東へ(高松側へ)進んでしまった.  気がついて引き返して20分ほどのロスで 終わったが,充分明るければ,後ろに,駅のホームが見えるはずであった.  修行,修行.



道標 [みちしるべ] (03/11/08) 後日記載

  歩いていると,みちしるべ に援けられることは多い.  遠回りになることを怖れていては,本当の歩き遍路とは言えないのだろうが, 現実問題として,道を間違えて時を失うのは避けたい.
  讃岐路では,最初 [雲辺寺] と最後 [納めの寺] が海岸線から離れるが,その間は海に近く,人里から離れない.  別の言い方を すると,JR線から余り離れない.  今回の歩き [金倉寺〜天皇寺] のラインは,JR線から1km以上離れないのではないか?   しかも,道は平坦で,殆んど高低を経験しない.
  そんな行程なので,地図に頼らないで歩くことにした.  もちろん,事前には読み込んでおいたが・・・

  さて,道標の話になる.  四国全域で,へんろみち保存協力会の果たす役割は大きい.  頭が下がる.  しるべには,ご存知の,ハガキ ほどの大きさの立て札と,直径6cn程の二種のシールがある.(この会の尽力の石の道標は,私の好みには合わない.)  最近,それらが薄れたり,剥がれたりする例 が増えてきた.   わたしも,個人的に,何か手助けできることはないかと思っていた.  例えば,油性フェルトペンで加筆するとか・・・ け・れ・ど・・・
  先々順の本山寺の途次では,フェルトペンの直書きの (↑へんろ) を見掛けた.  これは間違いではなかったが,後のフォローが 不充分で,結局不完全な案内であった.
  今回は,丸亀から坂出に掛けて,二種の即席・道標に遭遇した.  ひとつは,ビラに殴り書きのものを粘着テープでガードレールに 貼ったものだから,臨時の催しの剥がし忘れだろうか?  も,一つは,確信的なもので,電柱にフェルトペンで描かれた直径25cm程の 円形の中の矢印であった.  5〜6ヶ所遭遇した.  善意にケチをつける積りはないが,どこかちょっと違う気がする.

  ひと様々だろうが,私は,遍路歩きの中には,「オリエンテーリング」 の要素があることを否定しない.  も,少しキツク言えば, スタンプラリー的要素も・・・  それはさておき,「道を間違えたかな?」 とか,「おお,この道でよかったのだ!」 とか,もう少し極端に 言えば,『なにかの力に惹かれて』 道を見つける経験も再三であった.   だから,直径25cmの円形は相応しくない.



在所にて (03/10/22)

  中学校の同窓会 [50周年記念会] を行ったら,友人の一人が 『ウオーキング』 に熱を入れているという.  私の 『お遍路』 は自己流だから,話す相手と 時と場合によって,『トレッキング』 と言ったり 『ウオーキングみたいなもの』 と表現する. このときは,躊躇わずに 『お遍路』 と言い表したが,正解だった。   彼(等)は平均時速7〜8kmで歩くという,我は・・・ 3キロ半かなぁ?
  お互いに,へえぇ〜  といって別れた.  お互いに,『変な歩き方!!』 と思っている.  頭で理解できても,体では理解できない. 省みるに,白衣・菅笠 /納経帳の方々からは,私もまた 『変な遍路!』 と見られるのであろう.



弥谷寺 から 善通寺 (03/10/18)


< 弥谷寺 >

  『体育の日』 につながる,折角の三連休は天候は悪く,4週振りに歩きに出た.  弥谷寺は,三度目になる.  今回は,詫間で降りて歩き始める.   記憶と記録を繰って見ると,初巡=00.09.07,再訪=2001.09.28,そして,今10月・・ と殆んど時を違えず実りのときである.  初巡は,前後の記述から, 携帯自転車で巡っているが,記述の中にもあるが,『駆け足旅』 で,殆んど文字に残していない.   再訪は,事情があって,半日の行程で此処と海岸寺を訪ねるのが 目的であったから,印象にも残ったし,文字にも留めてある. 此度感じたことを書こうとして ひもとけば,そこに同じことが書いてある.  標高としては300m そこそこに寺域があるが,まさに 『立体伽藍』 で,面白い配置である.  その上り下りに残された遍路道は幾度歩いても趣き深い.
  平地の足慣らしから始めた身にとっては,正直に書くと,肺への負担は少し重く,600段余りの石段を前にして,幾らか躊躇した. しかし,退院後100余日の 真夏の日に,土佐・竹林寺に這い登ったことを思えば,『道は自ずから開かるべし』 の気持ちであった.



< 曼荼羅寺・出釈迦寺 > 03/10/18

  この双寺への道は,初巡のときの映像がくっきりと残っていて,今回は余裕を持って歩くことができた. 曼荼羅寺脇では,歩き遍路のために,茹でたての饂飩の 接待を頂いた.  感謝.  『私のような者は,「歩き遍路」 には入らないのでしょうが・・・ 』 というのが正直な気持ちである.
  初巡の曼荼羅寺では,在所の爺様に道を訊かれるという不思議に出遭ったが,今回は詫間を降りたときから一緒だった [彼らは意識していなかったが・・・] 熟年の二人旅 (夫婦ものと書いて間違いないのだろう) と追い抜き追い越される道中になった.  その人達は今回が全くの初回だそうで,道標やへんろシールの在り処を教えて上げる 一齣もあった. 形どおりに朱印帳 [納経帳] を求めておられたから,次に遭うときは,先方は白衣・菅笠姿かもしれない(汗). .

  出釈迦寺の奥の院 [捨身が嶽] へは,下から詣るだけで,登らなかった.




< 甲山寺 > 03/10/18
  旅に出るとき,いくら記憶の映像を巻き戻しても,甲山寺はファイルから抜け落ちていた.  そのような例は,ないわけではないが,ごく稀である.  多くの場合, 何か断片的なものが残っている.  努力して出てこなくても,別の作業の最中に巻き戻される例もある.
  出釈迦寺から再び曼荼羅寺の前を通って,1キロ半ほど歩く道筋でも映像は戻らなかった.  北側の遍路路から曲がるか曲がらない瞬間に,思い出した.   映像的には,広大な砕石の山・・・  寺の目前に掘割のような川があるところは,大興寺[67番]に近い雰囲気かも知れない.  先回は,県道48号線を経て, 南から入ったのであろう.
  み寺は,小さく纏まった佳い寺である.



< 善通寺 > 03/10/18

  広大で,ゆったりした伽藍配置には感心するが,あまり強いインパクトは受けなかった. 初巡のときもそうだったように思う.


  日暮れには1時間程あったので,もう ひと寺,金倉寺までは可能であったが,体力・・ というより気力が抜けて,此処で列車に乗った.  こんなときは得てして そうだが,乗り継ぎ時間に恵まれて,帰宅しても未だ真闇には時間があった.  朝の7時に家を出て,・・・気楽な遍路ではある.  やはり,饂飩の接待は受けては いけないのでは??




観音寺 から 大興寺 逆打ち (03/09/24)


< 観音寺から > 03/09/24

  秋彼岸の日に,雲辺寺を目指そうと考えました. ご存知のように,雲辺寺は,寺籍は徳島県池田町にあるが,「讃岐」 に分類されています. 阿波・讃岐を隔てる 嶺線の上にあって,伊予・土佐の国境からも (直線距離では) 指呼のあいだにあります. 
  少し古い書き物には,観音寺駅 [JR] から雲辺寺山麓 [ロープウエー乗り場] まで路線バスがあるやに書いてあるので,当節のことですから眉に唾しながら, 行ってみれば,古い案内板にも痕跡はありませんでした. 加えて,雲行きが怪しいので,今回は高み [800m級] を目指すのは諦めました.

  今回からは順を問題にしない巡礼ですから,駅から観音寺・神恵院を目指しました. およそ三年振りの再訪になります. かねて,この両札所は渾然とした配置でしたが, いつの間にやら,同じ境内の中で 「棲み分け」 が出来て居ました.
  およその方位で,東の高みにあった神恵院の元の本堂・大師堂をそのまま残して,観音寺の北隣に遷座してありました. 新・大師堂は,別のお堂であったものを改装された のでしょうか? 新・本堂は,旨く表現できませんが,コンクリートと混在した新築になっていました. 
  地表に置いた,巨大な打ち放しの一升枡 [数百石入るか?] に伝統的な形の本堂を担ぎ上げて,枡に穿った石段を昇って参詣する・・・ <伝わりますか> ・・・  香園寺に出遭った驚き程ではないが,一見に若かずです.

  此処での見所は,個人的意見としては,この新・本堂と昔からある鐘楼の彫り物でしょう.



< 本山寺・大興寺 > 03/09/24

  観音寺・神恵院から本山寺に到る道は,ほぼ財田川沿いに進むのが順当であろうが,少し,その支流に逸れてしまった. 備前の側から考えると,観音寺 (市街)界隈は 方位が判り難い. 海岸線がほぼ東西に走ると考えるのが第一の錯覚. JR線は,その海岸線にほぼ平行に走りながら,駅近辺だけ, 方位を変えて,ほぼ東西に駅に滑り込む.
  それやこれやで,観音寺・本山寺・大興寺のラインは概ね 「南進」 と頭の中に刷り込まれている. 実は,東進すると考えるのが近い. ともあれ,本山寺は,そんな 錯覚から救ってくれる. この平野部のあらゆるところから,およそ数キロメートル離れても,五重の塔が手招きしてくれる. この日も,遠景に,木立の中に,塔を見つけた 感慨は一入であった. 寺のシンボルの面目躍如である.  

  大興寺 (小松尾寺) への道には,田圃がしっかり残っている. 畦道に曼珠沙華 (彼岸花) を探したが,未だであった. お寺の境内脇には,栽培種の白花 (鍾馗蘭) が僅かに咲き初めていた. 今年は,少しだけ,季節がずれている心地だった.
  三年程前の初巡では,雲辺寺から降りつつ この御堂に到ったので,裏から入ったことになる.  今回裏に回っても,幾らか印象が違っていた. 今回の日帰り遍路では, ここから帰途 [観音寺駅] に向かう.  僅かに時雨だした.



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