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  2006年の朝を迎えて、リニューアル版を整備しつつあります。 
  昨秋、義弟が還暦・定年を機会に、夫婦で お遍路を始めました。  私の話に触発されたのは事実のようですが、どんなスタイルで巡っているのかは、此処には 書きますまい。  様々なスタイル・目指すところがあって良いのですから・・・。

 従来の記録は、そのまま、ここ から辿れます。

    05年4月5日であったろうか、種間寺辺りで撮影。 ⇒
   父なる人 (M32年3月生まれ) の時代に思いを馳せて。
      禅の公案の中に 『父母未生以前の我』 というのが
      あると教えられたことがあります。


                                            二幕一場
















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      Top    Photo Muse.

                   

  ◎ 初春に [08/01/02]

  初春の日に振り返れば、初めて遍路に出たのは、1998年の正月20日でした。  つまり、満10年が来ます。
別に、10年3650日歩き通したわけではないから、『満願の日』 が近付くわけでもないのだけれど、なんとなく、ふと振り返る気分になります。
  足の裏で、積もった落ち葉が、かさこそと鳴る音を聴いています。 今となっては場所も、正確な季節も思い出せないが、顔を覆って余りあるほどの柏の葉が散り敷いていた陽だまりの斜面が目に浮かびます。
  近場で言えば、讃岐国分寺辺りから根香寺辺りの、カエデ紅葉の吹き寄せの中に混じった散り椿の紅色も印象的です。

   〜〜〜  〜〜〜

  ○ 更に15ヶ月 [07/11/26]

  遍路に出なかった3つめの理由を書くと、この半年で言えば100歳の母を見送ったこともあります。 介護の専門家に頼んでいて、しかも、 2時間前まで応答があって、静かに人生を閉じて下さったので、その前も後も1日の時間の隙間が作れなかったわけではありません。 事実、下に書いた、 ボランティアの取材作業にはよく出ました。 神社にも、仏閣にもよく出遭いました。   いちばんエキサイトした出遭いは、〜〜先ず、写真を見ていただきましょう。

                 

  解説するだけ野暮だけれど、現役の梵鐘にドリル穴を開けることはありません。 仮に音を調整するにしても、内側の身を削ることはあっても、 外に傷をつけるものではありません。 そうです。 人為的に開けられた孔で、個人の悪戯などでなく、60余年前に、お国がなさったことです。 しかも、それが傷を受けても命永らえて還ってきた例は希です。 他の み寺に、無作為に払い下げられた例さえ少ないのに、元の鐘楼に納まった例は 更に少ないのです。
  ここでは、どこにそれがあるかは、さほど重要なこととは思わないので、詳細は述べません。

                  

  上の写真は、別のお寺の、モルタル造りの鐘体です。 勿論、鋳型や試作品ではありません。 これは60余年前に主のいない鐘楼を護っていた品物です。  単に見せかけの、張子の番犬ではありません。 ときとして1トンにもなる鐘を鐘楼から外すと、鐘楼自体が「はねる」現象を起こします。 つまり、 日本の古式建築は西洋工法の石造りや鉄筋コンクリートの「剛」の発想と違って、「柔」 のバランス構造になっているのです。 私は、敗戦の日を国民小学校一年生で迎えた私は、『銃後の護り』 という死語、封印されたはずの言葉、を思い出してしまいました。 

           


  「遍路」というスタイル、「四国」という舞台を得なくても、幾つもの気付きに出遭えた15ヶ月でした。

  〜〜〜  〜〜〜 

  ○ 出なかった夏遍路 [06/09/10]

  いっぱしの口を利くようですが、汗と砂埃にまみれてひたすら歩く夏の遍路は私の一つのスタイルです。  どこかで 「電線の影を選んで歩く」 と書いたように、道の右端左端を選ぶ余地もなく、首筋に直射日光を受けながら、歩く日も少なくありませんでした。
  振り返ると、この夏はそんな日がありませんでした。  2つほど理由がるかも知れません。  ひとつは、行くならば土佐路で、室戸を選んでも足摺に向かっても、時間的距離的に厳しいからです。  幾らか歳をとったということかもしれません。  もひとつは、地元のミュージアムの素材集めのために近隣を1日単位でチャリで走ります。  同じ寺めぐりでも意味が違いますが、時間と体力を使うことにおいては、同じことになります。
  この夏は近場の 「電線の影」 を探してチャリで走りました。  暑かった夏が漸く逝こうとしています。

  = = = = =

  ○ 今回のレシピ  [06/05/05 端午の節句]

  8:30岡山駅 11時前伊予小松駅 11時歩き始め
  六十二番宝寿寺  六十一番香園寺  同・奥の院  ここまで平地 約3km 12時半
  六十番横峰寺口は、北700mぐらいに迂回入り口が設けられている(05年台風の爪跡)。
  途中、上から5km地点辺りに崩壊跡3箇所あり。  上から約2km地点の谷は大崩れして臨時修復。
  み寺到着16時頃(予定を2時間超過)。  同じ道を打ち戻って、奥の院19時(累計約3時間遅れ)。

  上から約4km地点の分岐(右:石鎚SA・採石場 経由)から小松駅にマッスグ下りる経路の崩壊状態は未確認。

  小松駅に20時過ぎに着いて、西に走って壬生川から特急を捉まえる幸いに遭遇。  坂出からマリン。  岡山駅22時30余 分。

  ◎ 3度目の横峰寺 [06/05/06]

  横峯さんは、瀬戸内側では一番の難所であろう。  けれど、備前の側から行くには気安く訪れることが出来る。 本当は、お遍路とは 「気軽に」 巡るものではないけれど、西から入って順に巡っても、東から香園寺・同奥の院から逆に入って打ち戻っても、計算上は7時間ほどあれば駅に帰りつける(はずであった)。
  2度目の横峯詣では、04年の6月であったろうか?  少し離れた親族の、叔母筋に当たる人の書き溜められた般若心経の一葉を文字通り 「納経」 するのにこの寺を選んだ。  往時に同じことを記しているが、難所を選んだ気持ちの中に、「石楠花の寺」 が心の隅を過ぎっていた。  結果的には、花は時を過ぎて、一片も残っていなかった。  在所の人の 「連休の頃ですね」 という一言を土産に持ち帰った。
  抗がん剤服用の真中日で、体調は万全ではなかったが、天候を睨むとこの日か翌日しかなかった。  どのみち、不信心の歩き人・・・  果たして、平地を離れてからの一里半余りを這い登る結果となった。

      ==  ==  ==

  ◎ いつでも引き返せる

  定年を過ぎてからの遍路で気持ちが変ったことは、「いつでも引き返して、もう一度試みれば良い」 という考えに成ったことである。  所詮繋ぎ打ちだけれど、「覚悟」 みたいな気持ちがあったのが失せて、遍路精神からは益々離れているのだろうけれど、大師はどう観られるか?
  ・・・と思いながら、そう自分に言い聞かせることで、一歩一歩刻んで、前に進むことが出来た。

      ちょっと影像が大きいが・・・

  『双六は、どちら巡りで上がっても 苦楽極楽 くらくごくらく』  還暦頃に得た戯れ唄である。

    ==  ==  ==

  ◎ マウンテンバイクの若者

  険しい昇りで、マウンテンバイク(自転車)で降りてくる若者に出会った。  石積みの階段状の道であるから、彼に危険であるし、道も痛む。  前後ろの人への配慮は出来ていたが、一言小言を言いたくなった。
  が、止めにした。  アッケラカンと余りにも爽やかであったことと、黙々と前に進む振る舞いがあったから〜〜。

  彼には、それが彼の参詣スタイルであるのだろう。  彼に小言を言う資格は、矢張り私にもない。  もし、経も読まず香も焚かないで、自力で、ただ這い登るだけを誇れると声高に主張するのならば、駐車場へ行って、「車遍路」 に小言を言い、抗議のビラを撒かねばならない。

  長い間、自動車道を拒んできた横峰寺。  自動販売機の¥120の文字をフェルトペンで150に書き直している寺。  朱印と土産の手ぬぐい (¥500−相当) に紙幣一枚納志して 「どうぞこのまま〜〜」 と言ったら、稀有な生きものを見る眼差しで、手早く用意していた 「お釣り!」 のコイン2枚を引っ込めて、手ぬぐいまで引っ込めて仕舞った初老の書記僧。  自販機の横の 「缶」 専用であろう筈のバスケットの中から弁当ガラを黙々と選り分ける若い僧。  真言・御室派ではあるが、人界の矛盾をそのまま映して、禅問答に事欠かない。

  が、私には、なにか気に掛かる み寺ではある。

                       野暮註> 朱印を頂くときの 『定価!』 は消費税なしの¥300−

      ==  ==  ==

  ◎ 身の丈ほどの

  「格差社会」 が言われる中で、それを慰めるように 「身の丈ほどの暮らし」 と言われる。  勿論、それで説得しようとする消極性は否定したいが、坂道で気づかされたことはその積極的な意味合いである。
  険しい登り道でも勾配が緩むと心が優しくなれる。  ふと気が付くと、30mほど先が眼の高さより低いと坂道の辛さを感じなくなる。  勾配5/100程度であろうか?  私は自転車乗りなので、持続的に漕ぎ昇れる傾きともいえる。  降りでも殆んど同じことが言えそうで、・・・  ああ、これが 「身の丈ほどの起伏」 なのだと感じる。

  険しい道をよじ登りながら、「その先を曲がれば、緩やかな道が待っている」 と期待を重ねる。  大抵の場合、見事に裏切られる。  裏切られながら、また一息、息を込める。  10回ほど期待を裏切られた後に、緩らかな道に出で会う。  また、愉しきかな。

      ==  ==  ==

  ◎ このたびの土産

  満開には日数はあろうけれど、全山そこかしこに石楠花が開いていた。

     

     


      ==  ==  ==

  ◎ 授かったもの

  授かったものを具体的に書けるのは仏罰を恐れぬものの仕業であろう。  昇りに2時間、降りに1時間、想定を越えた時間を費やした。  いや、「費やした」 とは仏罰を恐れれぬ自我中心の言葉。   3時間を 「授かった」 と書くことも出来る。

                   

  ◎ 滅びしもの 2 [06/03/18]

     

  前山ダムに至る直前に、標識に遭遇しました。  真後ろは、ダムの躯体です。  これより先に、ダム淵に田畑もあり集落もあるが、この道を小学生が歩いて通うとは思われません。  定期路線バスも3年前に休止されて、「自治体バス」 が日に3〜4便走ります。  標高およそ100m。


  ◎ 滅びしもの [06/03/16]

  先の遍路の道上で得た2枚の写真を掲げます。
  
  近現代の感覚では、明治後半から昭和前期までは列車で、主に、海岸線を経由して移動します。  昭和も後半以降では、自動車を使うことを覚えました。  明治初年までは、徒歩で、牛馬の援けを借りて峠を越えたものでした。
  志度長尾から山を越えて阿波 (脇町) に至るにも、大切な道がありました。  前山ダムはその要所の村を水没させました。

       


  ダム頭までは、長尾から5〜6kmで150mほど昇る勾配ですが、牛馬は喘ぎ喘ぎ昇ったのでしょう。  まだその先に、山越えが待っています。  「ゆきだおれ」 た馬の墓が作られました。  明治24年の年号が見られます。  それでも、この時代には、牛も馬も自分たちの一部分だったのです。  はらから だったのです。

                       

                   

  ◎ 現世利益 [06/03/06]

  遍路の道で、現世利益や、自己栄達を願ってはいけないと言われています。  一方で、願うのを妨げないのだよと言う人もあります。  私は、教義や信念に基づくものではないが、さような願い・望みは小さいと思います。
  よしんば、それから入っても、三寺四寺訊ねるうちに、そんなことはどうでもよくなります。  悟るとか、教えられるとかではなく、自分の中の獣性は、容赦なく前へ進むことに身体を駆り立てます。  スポーツに打ち込むことの一側面と同じものがそこにあるかもしれません。
  今回は、前山の仏たちの前で、薬師の寺・納めの大窪寺を遥拝して、幾つかの願い事をしてしまいました。  中味は、お薬師さんとの約束で、文字にはできませんけど。


  ◎ 日速 何キロメートル [06/03/06]

  予告の通り(?)、昨日、石仏に逢って来ました。
  JR志度駅を出発点にすることを避けて、「造田(ぞうだ)」 出発で、琴電・長尾到着に組みました。  あからさまに参る お寺としては、長尾寺です。
  そのせいもあって、逆に、「ひたすら歩く」 ことに徹したとも言えます。  同じ瀬戸内でも、在所と違って、山の脊梁は南にあり、川は北に流れ降り、勝手が違います。  けれど今回は、「鴨部川(かべがわ)」に付かず離れず、ひたすら南を向って進みます。  遍路道にこだわらなければ、いかようにも進めます。

  久し振りに、「歩き、ありく」 半日でした。  ここで、読者に質問?  あなたは、「時速 何キロメートル」 で歩きますか?!  これは既に意地悪い質問です。  歩きながら気づかされたことは、この国では、「時速」 という概念すら意味がありません。  「日速」・・・  結果として、一日に○○km歩いたよ!  何時間掛かりました?  と後で付くのです。

  そうです、今回は、日速四里、正味歩行時間5時間。

        = =

  ◎ 殆んど平地の人里で   

  遍路道から少し逸れて、鴨部川の右岸を歩いたお陰で、長尾 上名 という郷で、20頭余の野猿の群に遭いました。  昼過ぎでしたから、餌付けが行われていたのかもしれません。
    (猿権情報保護のため、画面に一部細かいモザイク加工が施してあります[嘘])

      
  
        = =
 
  ◎ お接待

  往きの快速列車で、4歳ほどの少年に会いました。  1歳半ほどの妹と、その父母連れでしたが、少年が凛としていたのが印象的でした。  父なる人が、傍らに坐るように勧めても、「立ってるもん!」と掴まるものも求めずに通路の中に自分の身を支えていました。   それを静かに見護っていた、双親も今どき頼もしい思いがします。
  嚢中に、列車を描いたJRオレンジカード(用済み)があるのを思い出して、直接手渡すのは躊躇われたので、父なる人に渡しました。  少年は、体中で喜びを示してくれました。  実は、カードは、我が孫に手渡すときもあるかなと思っていた代物だが、中吊り広告の大人の指先ほどの「あんぱんまん列車」を見逃さない子なので、喜ぶことは眼に見えていました。
  お返しに、「観音寺」 という名物菓子を1つ呉れました。  『な〜んか、じいちゃん得したぞぉ』  思えば、門前を通過した八十六番・志度寺も、往き還りに詣でた八十七番・長尾寺も 「観音の寺」 なのです。  帰路、中食を採り損ねて、その菓子を食しました。  ことのほか甘い心地がしました。  遍路断続八年、最高の接待を受けた心地です。
  いや、二番目です。  最高だったのは、土佐から伊予に亘る長丁場で、「烏が落として飛び去った」伊予柑を頂いたときです。

        = =

   ◎ 野の仏

      

  斜面の崩落があって、幾体かが遭難しておられました。  嗚呼!

                 

 

  ◎ 前山ダム [06/03/04]
  
  明日、久々に歩こうと思っています。  順番から言えば、室戸岬辺りだけれど、長いこと歩いていないのと、薬を呑むサイクルに入っているので、八十七番・長尾寺界隈を歩こうと考えました。  区切り打ちの、阿波/讃岐と来て、土佐ですから、八十八番までの道は残してありました。  それは良いとして、昨年(05年)の春の彼岸に長尾寺でいったん讃岐を済ませて以来、、前山ダムのほとりの石仏群が招くことしきりなのです。
  大窪寺さんは残しておいて、石仏に逢いに行ってきます。  歩きに出る前にこのようなことを書くことは稀ですけど。  八十六番・志度寺からか(つまりJRを志度で降りるか)、長尾寺からか(造田迄行くか、琴電利用か)も明日の風次第です。

                   


  ◎ 青木地蔵 [06/01/22 06/05/12 補筆・画像挿入]

  「今治市」の海岸べりの石油施設で、火災事故があって、人命が失われたと報じられる。   『太陽石油』 という企業名を聞くと、『番外・青木地蔵』 に思いが至る。  企業の敷地による蚕食から僅かに免れたように小さいお堂が残されていた。  消防車庫と同居するような形であった。
  伊予亀岡駅から至近のところだから、菊間町だったか?   市町村合併で、編入されたのか?  菊間町は瓦製作と沿海漁業・加工(例えば しらす干)の町である。  先巡では、町の中で、6畳敷きほどの大きな鬼瓦に出会った。  鬼瓦を造れる人は『鬼師』と呼ばれ尊敬されている。

      

     菊間町の鬼瓦 00年7月30日の日付            青木地蔵の陶香炉(赤銅色をしている)

  後の報道では、風向きとの関係もあって、「逃げ遅れ」 要素もあったと言う。  ここで神仏を恨むのは門違いだが、『青木地蔵』 は足の守護神である。  香炉を写した撮影ポジションの背後には夥しい数の義肢や杖が奉納されている。  快癒を願うものか?  改善を感謝したものか?
  「祟り」 思想を持ち出す積りはないが、開発の名の下に、霊場を粗末にしたのではないか?!

                  

  ◎ 初詣 ? [06/01/09]

  去年は元旦だったが、今年は成人の日に、郷社の神・神社の門前まで参った。  こんなのでも、「初詣」というのだろうか?  風のない、穏やかな日であった。

     


                   

  ◎ 戌年の朝に  [06/01/01]

  犬っころが、ただただ嬉しそうに駆け回ったり、自分の尻尾を追いかけたりしています。  ひと も、もともと、特別の思惑もなく、歩きたくて歩き、また、歩く必要に 迫られて歩いたに違いありません。
  去った年に、「あるく」 ことに重い意味を求めたことも、とりわけ失望したことがあったわけではないが、今年は、改めて 『歩きたいから歩く、歩きたいように歩く』 ことにします。

     <ワープロ機能は、ときに、悪意のないいたずらをします。
      「ある期待から歩く」 「歩き太陽に歩く」 と変換されました。
      もしかしたら、悪戯ではないのかな と思います。>


  ◎ アルバムから  [06/01/01]

  ディジタルアルバムの中から、土佐・大日寺門前の映像。  ニホンゴには、「行き倒れ」 という言葉があります。   (私は「ゆきだおれ」と発音しますが)、英和辞書を繰ると、「いきだおれ」 の項に、”fall on the street” とあります。  どうも、文化の違いなのでしょうか?  語感がぜんぜん違います。  かの国にも 「巡礼」 はあって、「ゆきだおれるひと」 も多いと思うのですが・・・
  それはさておき、土佐の二十八番寺の門前には、そんな人の墓があります。  道中ではたくさん見掛けましたが、これは山門の外の、十歩あるかないかの処です。  この人は、参詣を 果たせたのだろうか?

           

  平地に降りると、「参道」 を示す石碑 [いしぶみ] があります。  近現代のもので、特別な代物ではないが、自分の生まれる前から、そこに立っているのです。

   < 上の、M32年に対抗してるって?  かも知れません・・・
        ただ、上の碑は、父なる人が生まれることが、既に、約束されていたときの代物で、
      こちらは (13年4月生まれだから) 予兆もなかった・・・  >

                

          表                              裏

             

  ◎ 語呂合わせ好み [2005/12/21 = 後日掲示]

  何処かにも書いたが、私は、語呂合わせに興味があります。  縁起担ぎを それに託すような・・・。  大相撲の頂点には 「朝青龍」 が坐っていますが、 その四股名の発祥が 三十六番・青龍寺にあることは良く知られています。  彼が、「青龍」 の近くの土佐・明徳義塾に留学していたからです。


  彼が昇りつめたとき、思わず、「清瀧(35)−青龍(36)」の奇妙な (絶妙な) 符合を思い出したものです。  初巡では、その面白さに気づいていたものの、 石碑(いしぶみ)の写真を撮るには至りませんでした。  つい半年ほど前のいの町 [伊野町⇒いの町] 行きで、4月初旬に再巡したときには、この写真をゲットするのが大きな目的でした。  改めて掲示しておきます。


  ◎ 在所を歩く [2005/12/20]

  暫く歩かなかった理由を、敢えて、述べるならば、2つほどあるかも知れません。  岡山市が新たに開設したミュージアム [ODM] の 「市民学芸員」 (完全なボランティア制) に参加したことで、「外」 への関心が 少し薄れたことです。
  それと幾ら関わりがありましょうが、05年の10月半ばに岡山市域の地下に眠る 「条里制の遺構」 に眼が向きました。  同じ 「道ツナガリ」 なのかも知れません。  2〜3時間の隙間を見つけては、「道」 を調べ、鉄道の踏み切りに残された 「古い地名」 を探って、近隣をうろうろしていました。

  振り返ってみると、この1200余年前の 「郷道(さとみち)」 に対する関心は、中学生の時代に、既に、芽生えていたことが判ります。  数ヶ月の 「道探し」 で、「発見」 した道の殆んどが、その頃に 「何だろう? 何故だろう?」 と疑問に思っていたことの再発見なのです。  道が、向こうから、 「こちらを見なさい!」 と教えて呉れることもしばしばです。

  先達の仕事を色々調べているうちに、10年20年前に、それと知らないで気楽に声を掛けていた老先生がこのみちの大家であることを知って、思わず額に 汗したりします。  他方で、往時(意識の底には多いに興味があったので)、教えを請うておけばよかったっと思います。