New Version  Since 20th Dec. ’05
  Revised 5th Jan. ’08

  2008年の初歩きを終えて、リニューアル版・二幕の第二場に更新しました。 
  20ヶ月ぶりの歩きの舞台は、讃岐五色台巡りを選びました。 白峰宮(天皇寺)/白峰の陵松山・白峯寺、お山の木々は穏やかに迎え入れてくれました。
  また、気ままな歩きを続けさせて頂けそうです。

  従来の記録は、そのまま、ここ から辿れます。
  第一場へは、こちら から!

    隠岐の島と並んで、四国は貴人配流/落人の島です。
  崇徳院は筆頭に書かねばいけない お人です。


                                             二幕 二場

















Mail To   









      Top    Photo Muse.

                   

  ◎ 秋深まります [08/11/04 記載]

  瀬戸内の北岸の 「西大寺」 は、以前は市制を敷いていましたが、遠い昔に岡山市に編入されました。 その名の示すとおり、『西大寺観音院』 の門前町として 「西大寺村」 から発展したところです。  岡山県を流れる、三つの大きな河川のひとつ、東の大川・吉井川の河口にあって、高瀬舟交易の表港でもありました。
  西大寺観音院は 『裸祭り』 = 会陽で知られる寺でもあります。  寺伝に依ると、来年が創始五百年に当たるようで、会陽祭りばかりでなく、様々な催しが組まれています。
  そんな中で、岡山県下の、観音院以外の会陽習俗を取材しています。  元々、真言・天台の寺の修会が起源と考えられていますから、結果的に、岡山県下で遍路の真似事をすることになります。  此処の話題としては、チョット、こじつけに成りますかネ?

  会陽の行事全体の解説はWEBの中を辿って頂くとして、ここで言う会陽は、『地押し』 と呼ばれる、裸の群集の宝木(シンギ)争奪戦が中心になるもので、主宰寺院が 『宝木を授ける』 行為を伴います。
  今は、様々の理由で、会陽の行事が続けられなくなった寺院で、 『宝木授る』 の名残りを捜すのが、一連の取材の目的です。  調査結果の中から、写真を掲げてみます。  
  総社市内にある、宝満寺の例です。  昭和初年ごろまでは続いていたようです。  授けられた、宝木も保存されています。

      宝満寺本堂

        大師の絵姿の後ろに小窓   


  近年、本堂は改装されていますが、昔の姿を残してあることは嬉しいことです。

  第二の例は、同じ総社でも、広い新・総社市の北西、総社山田地区の善福寺のものです。  ここは、他の場所で会陽が衰退する中で、明治の後期に始められました。  此処へは、訪れた初めて解かったのですが、巨大な御福窓〜と理解するほかない〜がありました。  画面中央、石段の上、山門2階部にあるのがそれでしょう。

                 

  画面の右方に写っている長方形の石碑には、会陽を創めた由縁を書いています。  由縁を掲げている例は、県下でも、それほどありません。  奥の本堂には三尊を祀り、市の重要文化財に指定されています。

                     

  ◎ 暑い夏が過ぎます [08/08/21記載]

  アジアの真ん中が紅い旗印で埋め尽くされています。 正確に言えば、アジアの真ん中の広い領土の数キロ四方が埋められているだけですが、世界中の人々がそんな勘違いの中に置かれて居ます。 別に、一部の識者がそうであるように、それが良いとか悪いとか言う気持ちは私にはありません。 ただ言えることは、その熱気の中で、8・6 も 8・9 も、8・15 も確実に巡ってきたということです。
  実際に遭遇したのは4ヶ月前のことですが、8・15 のことを思い返す一つの 「生き証人」 (証拠物)のことを書きます。 例によって、どこにあるかは本質的ではないので、(日本国中どこにでもあり得たことなので) 明示的には書きません。

  何より実物の影像を示しましょう;−

    

  2枚目の影像から解かることですが、これは明らかに 「梵鐘」 です。 いや、梵鐘であるはずはありません。

                   

  昨年11月に書いた文の関連です。 昭和で言って17年から18年に掛けて、様々な金属類が (以外も含めて) 接収されました。 当時の言葉では 「応召」 です。 「御召しに応じる」 の意味から説明しなければ通じない時代になりました。 寺寺の鐘が姿を消したことは下にも書きましたし、その後数奇な運命を辿った梵鐘も数限りがありません。 奇譚のヒーローは岡山県下だけでも、十指に余るはずです。 ここでは、留守居をした 「鐘体」 に注目すべきです。

  書き進めるとキリがありません。 松の根や幹から松脂を得て航空機燃料にする国策運動については、敗戦後、様々な論評があり、技術論の側面からも批判もされていますが、まだ尽くされていない部分もあるようでう。
ともあれ、己の役割を理解できなかったであろう鉄の器が、主の帰らぬ鐘楼を護る 画餅/ペーパームーン/張子の虎の役割を背負わされるとは、〜〜   まさしく、戯画そのものです。

  笑っている場合ではありません。 奇しくも筆者の古希の誕生日の遭遇でした。

                   

  ◎ 讃岐五色台 [08/01/06記載]

  荒れて始まった08年の初春が穏やかな日を迎えたので、四国に足を向けました。 20ヶ月ぶりです。
真っ先に思い浮かべた み寺は 横峰寺 でしたが、時間的なことや体力的な条件を顧慮し、五色台巡りにしました。 このコースでは、歩きながら平坦度の違う経路を選び取れるからです。 我が身勝手な選択ですが、結果的には良かったと言えます。
  五色台辺りの良さは、どこかに書きましたが、備前の側からみて、比較的平易な割りに、遍路の総てを凝縮したような 『ミニ遍路』 の味わいを含んでいるからです。  此度の行程に一宮まで欲張れば 「満行」 と言えます。

        今回のレシピ;−
       出立:JR 八十場駅 10:ごろ  七十九番天皇寺/白峰宮  平地を経て 八十一番白峰寺
       十九丁を経て (讃岐・国分寺はパスで) 八十二番根香寺  香西口から JR 香西駅 17:半ごろ


    = = =

  ◎ かさこそと

  晩秋から冬の落ち葉を踏む音が 「かさこそ」 と鳴るとは、誰が言い出したことでしょう。  言い得て妙です。(そこの若者! 「みょう」 と読んでも良いが、「ミョウチキリン」 の趣意ではありませんぞ!)  妙(たへ)なる響きです。

  遍路を、私のような真似事であっても、続けることができるには、総合的な 「体力」 が要ることには異存はないでしょう。 それには筋力/肝腎心の内臓力も当然ですが、今日の歩きで気付かされたことは 「聴力」 です。
  「かさこそ」 の音は一様ではありません。 下が石畳か、ガレ石か、濡れているかで大いに違います。 それを判断することで、降りの道の足配りが変わります。  「かさこそ」 の音の差で、幾度か、足を滑らせることから救われました。

  鳥の声や小さい瀧の音で行動を左右した経験もありますが、此処では書かないでおきます。


  ◎ 香りと色

   この季節に人里を歩くと、やはり、蝋梅の香りです。  水仙の花も匂い立ちますが、距離を隔てると、それほど強くありません。
  此度は五色台を巡りましたから蜜柑です。  勿論、蜜柑の花の香りは噎せるほど強いものがありますが、今は季節が違います。 実橘の香りです。 香りというより、この季節に固有の、山一杯に満ちた空気そのもの張りつめた状態ってな感じです。

  根香寺から香西口に降りる路では、枇杷が花の盛りでした。  枇杷の花の香を味わった記憶はないが、枇杷で印象的なのは色です。  ええ、樹肌一枚剥いた下の色です。  染色家が、「花咲く前のさくらの樹皮」 について語るのを見覚えていますが、枇杷の木はその実の色を濃縮したような色を樹肌の下に隠しています。
  此度は目撃しなかったが、先回の五色台界隈で印象的だったのをフラッシュバックして思い出しました。


  ◎ 路傍の仏

  この地では、野の仏に目を逐一向ける暇はありません。  収めの寺に向かう前山の仏たちは別格として、丁石に目を向けることは少ないものです。  それでも、先回の白峰寺への道では、アスファルトで固められた照り返しの路際で仏たちに慰められた記憶があります。  その仏たちに逢うのも此度の目的のひとつでした。

    

  およそ3年の刻を隔てて、仏は、同じ前掛けで迎えてくださいました。  地元の人たちの心づくしなのでしょう、造り花、生き花で荘厳されて、おわしました。  八十場 (弥蘇場) から、平地・山路をやってきた身を待っていてくださいました。

  ◎ 軍用地の石標

  前に巡った時にも 『陸軍用地』 の石標は印象的でした。  地図で調べれば、白峰寺の南東方が国有地、はっきり言えば防衛省の用地であることは明確です。  が、実際に衣類の右半が鉄条網に引きちぎられそうな想いで脇を通ることは強烈です。

    

                      仏たちが鉄条網の 「彼方の岸」 に囚われています



                  

                                   眼に止まるだけで弐拾に余る石標があります

  九条論争を仕掛ける積りはありませんが、『帝國陸軍』 は今も生きています。  『國體』 は維持されているのですから。  ここは崇徳院の怨念の地です。  <崇徳院は明治の御世になって、「恩赦」 されているのです>
  あからさまな鉄条網は200mほどですが、「見えない垣根」 の長さは恐らく2kmでは済まないでしょう。  谷降りの一部で、どう考えても 「頭の黄色い石標」 の内側に入り込む場所があります。  一瞬軽い眩暈を覚えます。  いにしえの石標が、「此処を通れば間違いないのだよ」 と教えてくれるのが救いです。


                   

  ◎ 初春に [08/01/02]

  初春の日に振り返れば、初めて遍路に出たのは、1998年の正月20日でした。  つまり、満10年が来ます。
別に、10年3650日歩き通したわけではないから、『満願の日』 が近付くわけでもないのだけれど、なんとなく、ふと振り返る気分になります。
  足の裏で、積もった落ち葉が、かさこそと鳴る音を聴いています。 今となっては場所も、正確な季節も思い出せないが、顔を覆って余りあるほどの柏の葉が散り敷いていた陽だまりの斜面が目に浮かびます。
  近場で言えば、讃岐国分寺辺りから根香寺辺りの、カエデ紅葉の吹き寄せの中に混じった散り椿の紅色も印象的です。

                   


  ○ 更に15ヶ月 [07/11/26]

  遍路に出なかった3つめの理由を書くと、この半年で言えば100歳の母を見送ったこともあります。 介護の専門家に頼んでいて、しかも、 2時間前まで応答があって、静かに人生を閉じて下さったので、その前も後も1日の時間の隙間が作れなかったわけではありません。 事実、下に書いた、 ボランティアの取材作業にはよく出ました。 神社にも、仏閣にもよく出遭いました。   いちばんエキサイトした出遭いは、〜〜先ず、写真を見ていただきましょう。

                 

  解説するだけ野暮だけれど、現役の梵鐘にドリル穴を開けることはありません。 仮に音を調整するにしても、内側の身を削ることはあっても、 外に傷をつけるものではありません。 そうです。 人為的に開けられた孔で、個人の悪戯などでなく、60余年前に、お国がなさったことです。 しかも、それが傷を受けても命永らえて還ってきた例は希です。 他の み寺に、無作為に払い下げられた例さえ少ないのに、元の鐘楼に納まった例は 更に少ないのです。
  ここでは、どこにそれがあるかは、さほど重要なこととは思わないので、詳細は述べません。

                  

  上の写真は、別のお寺の、モルタル造りの鐘体です。 勿論、鋳型や試作品ではありません。 これは60余年前に主のいない鐘楼を護っていた品物です。  単に見せかけの、張子の番犬ではありません。 ときとして1トンにもなる鐘を鐘楼から外すと、鐘楼自体が「はねる」現象を起こします。 つまり、 日本の古式建築は西洋工法の石造りや鉄筋コンクリートの「剛」の発想と違って、「柔」 のバランス構造になっているのです。 私は、敗戦の日を国民小学校一年生で迎えた私は、『銃後の護り』 という死語、封印されたはずの言葉、を思い出してしまいました。 

           


  「遍路」というスタイル、「四国」という舞台を得なくても、幾つもの気付きに出遭えた15ヶ月でした。